歴史の重みを感じさせる蔵に一歩足を踏み入れた瞬間、心地よく流れるクラシック音楽に耳を奪われた。もうもうと蒸気が立ち込める中、黙々と働く男たちの姿があり、あまりの違和感に驚かされてしまった。
微生物にも心地いい音楽を聴かせる珍しい取り組み
かつては千石船が行き交い、諸国の物資が集まる問屋が軒を連ねていた備中玉島港町。江戸時代の面影を今に残すこの地に“一度飲んだら忘れられない”という酒造りを追求。数多い酒の中にあって、一段と輝く素晴らしい酒であるようにと願いを込め、酒銘を「燦然(さんぜん)」と定めた菊池酒造はある。
「酒造りで大切なのは一に麹、二に酛(酒母)、三に造りです。つまり多くの工程で微生物の力を借りるわけですね。微生物も生き物なので、やはり心地の良い音楽を聴くと活動が活発になると思うんですよ。昔は酒造りの際、仕込み唄のようなものを歌っていました。その理由は労働の辛さを忘れること、一曲の長さで時間経過がわかることといわれています。でも案外、微生物に歌を聴かせていたのかも知れませんね」
五代目蔵主の菊池東さんが、蔵に音楽が流れている理由をこう説明してくれた。酒造りの期間中は、蔵内のスピーカーから常に菊池さん自身が厳選したモーツァルトの楽曲が流れている。なぜモーツァルトにこだわるかというと、モーツァルトの曲は聴くことによって、脳内にα波が発生。リラックスさせてくれる効果があるといわれているからだ。
菊池さんが音楽にこだわる理由は、ご自身が音楽家であることも影響している。5歳の頃からヴァイオリンを始め、大学時代は室内合奏団の指揮を担当。現在も倉敷管弦楽団常任指揮者、倉敷音楽協会理事長という別の顔も持っているのだ。
蒸しあがった米が甑から出てくると、それまで寒かった酒蔵内の温度が上がったように感じられる。それは単に蒸気のためだけではなく、やはり蔵人たちが放つ緊張感からくる熱気なのだろう。何しろ蒸米の目標吸水率は麹米、酒母米、掛米と用途に応じて異なる上、蒸した後は各用途に応じて適切な温度になるまで冷却しなければならない。一瞬たりとも気が抜けないのだ。
蔵元の菊池さんは自らが杜氏となり、実際に酒造りの現場を取り仕切る。近年増えてきたというオーナー杜氏というものだが、菊池さんは岡山県の第1号だ。伝統的な備中流の技術を用いて、大量生産では出すことができない、きめ細やかで丁寧な味わいを心がけている。
出来上がった酒は口に含んだ瞬間、華やかな米の香りが口中から鼻に抜け、それがすっと喉に収まる。後味の良さにつられて、さらにもう一献と杯を重ねたくなる。そんな馥郁とした味わいが楽しめる酒だ。菊池さんが醸す酒は、微生物が発するいい香りとモーツァルトの調べが融合し、燦然と輝くのであった。
文/野田伊豆守 写真/木下清隆