くつろぐ仕掛けに満ちた時間を楽しむための宿

「私、初めて乗ったわ。センチュリーって」
「僕もだよ。温泉旅なのになんだか天皇陛下になった気分だね」

近鉄志摩線賢島駅で我々を待っていたのは、銀色のショーファーカーだった。上質なウールで織られたジャガードモケットのシートに沈めば、ドライバーが宿へと運んでくれる。

5分ほどで、黒塀で目隠しされたような佇まいの宿のエントランスに到着。促されて小径を進み館内へ足を踏み入れると、間接照明が美しいフロントに迎えられる。

その先に広がるのは、吹き抜け天井と壁いっぱいの窓から明るい日差しが降り注ぐ、広やかなラウンジ。

雨に濡れた外の庭の緑が、瑞々しかった。お茶請けにいただいた白くコロンとした形のクッキーがホロリと口で溶け、その優しい甘みに肩の力が抜ける。伊勢神宮が遷宮の際、宮川の上流から集められ奉納される“おしらいし白石”をかたどったものです、とスタッフの方。

正殿の周りに敷き詰められる真っ白い石だそうだ。ここから車で20分ほどだという伊勢神宮には、帰りにぜひ寄ろうとさっきの車内で話していた。生憎の天気でもあり、今回の旅はゆっくりと宿の中で過ごそうと決めていた。

「それにしても、素敵な宿ね」
呟くように言う妻に私も黙ってうなずく。椅子や照明、調度の一つひとつが吟味され、選び抜かれたものであることがわかる。

4000坪の敷地に、露天風呂を備えた15の客室と3つのヴィラタイプの離れ、3つの貸切温泉が首飾りのように連なっている。連泊してゆっくりと時間を過ごしたいと、今回は離れを予約しておいた。

スタッフに続き、フロントを出る。フロント横にある“時の家aoi”と名付けられた八角形の建物は、滞在客が思い思いの時間を過ごすためのリラクゼーションスペースだそうだ。

中をのぞくと、デザインの異なる椅子がそこここに置かれ、貸出用の本やブルーレイディスクがぎっしり積まれた棚やオーディオ機器が。まるで秘密の書斎のような空間に、つい「こんな部屋、うちにも欲しいなぁ」とため息を漏らしてしまう。

その建物の外壁に沿うように造られた小径を進み、本館とは違う“別邸海里のはなれ”と書かれた門をくぐる。その先の高台に佇む“花の冠”という一棟が、我々の客室だった。

12.5畳の吹き抜け天井のリビングとツインベッドルーム、その先には広々としたテラスがあり、白濁した温泉が満ちる露天風呂がある。温泉は無色透明の自家源泉だそうだが、細かい気泡を出すシルキーバスなので白く見えるんですよ、とスタッフの方が言う。そして庭の木々の間からは彼方に、英虞湾も望むことができる。

「すごいね、贅沢な部屋だなぁ。あのテラスの建物は?」
嬉しそうに見回す妻に、スタッフの方が「サンルームです。置かれている椅子は岩盤浴と同じ効果があるヒーリングストーンカウチなので、くつろいでいただけますよ」と続ける。夫婦ふたりきりの時間もいいけれど、やはり、たまにはひとりで心ゆくまでくつろぐ時間も欲しいもの。至れり尽くせりだねと、顔を見合わせて笑う。

せっかく早い時間に着いたのだからと、旅装を解いた後、海が見えるという貸切温泉に出かけた。

湯に浸かった後は思い思いの時を過ごす

“天の鏡”と名付けられたそこは100㎡もの専有面積を誇る貸切の露天風呂。扉を開けるなり、わ、すごい! とふたり同時に思わず声を上げた。まるでインフィニティプールのように水平線に向かって温泉が満ちる湯船。すぐ向こうは海だ。外にもガラスで仕切られた脱衣スペースにもゆったりとした椅子が置かれ、まるで大きな客室のようだった。

湯船に浸かり、雨に煙る海を眺めた。熱すぎない湯温と滑らかな肌触りが心地良く、黙ってその感触を味わう。聞こえるのは湯音だけ。静かで広々とした時間が、何よりも嬉しい。雨は小降りになり、ふとやんだ。白い靄が向こうの山際を音もなく渡ってゆく。

客室に戻り、それぞれの時間を過ごす。妻はカウチベッドで本を開き、私は寝湯が楽しめる露天風呂を楽しむことにした。大きな空間は気持ち良いものだなと、改めて思う。

狭い場所だとどうしても互いの存在感が気になってしまうものだ。これくらい広い家だったら喧嘩も減るかもしれないな、と思ってこっそり苦笑いする。

やっと湯から出た頃には日も暮れ、窓の外には足早に群青色の夜が降りてきた。暗くなるのが早くなったねと言い合いながら、楽しみにしていた夕食へ。ロビーを抜け、ダイニングへと向かった。

また訪れたくなる心尽くしのおもてなし

「食事処“さかなへん”っていうのね。面白い名前。志摩だから、やっぱり今夜は伊勢エビかな」
「松坂牛もあるよ。ううん、どっちでもいい。お腹が減った」

ダイニングへ続く扉を開けるとほの暗い回廊が続き、両側に個室のテーブル席が連なっている。中庭を眺める一室へ通され、なんとなくふたりでかしこまる。デートみたいね、と小さな声で言う妻に少し恥ずかしくなってふん、と変な顔をしてみせた。

やがて運ばれてきた創作会席料理の数々は和食とはいえ、まるでフレンチを思わせるものばかり。問えば平貝は、その殻を皿に海藻のジュレとエディブルフラワーをまとった美しい佇まい。

今日揚がったという戻り鰹は、黒ばら海苔(板状にしないで干したスサビノリ)と香ばしく焼いたパン粉、岩塩とあえていただく。そして熊野で肥育された黒毛和牛・美熊野牛のかいのみの炭火焼には、カブとワサビを合わせたピューレとパリッとローストしたホウレンソウが、皿の上に初冬の風景を再現しているようだ。

「いい意味で、期待を裏切る料理よねぇ」と、妻が感嘆する。聞けば、この秋から新たなシェフが就任したそうだ。挨拶に来てくださったシェフは、伊勢の食材を使うのが楽しみですと、今日の料理についても丁寧に教えてくれた。醤油と砂糖をなるべく使わず、素材の味を生かすための工夫。

豊富な海藻を使いたいこと。宿が力を入れて生産者を増やしているという志摩野菜の話。これからの季節に楽しのみなカキのこと。シェフの話を聞いてると、また別の季節に来たいな、と思ってしまうのは自然なことだろう。

「リピーターのお客さんが6割だそうよ。年に5回以上訪ねてくる方も多いんだって。わかるわね」と妻も言う。それに、と続ける。

「2020年の6月には海辺の敷地にヴィラを建てるんだって。船着場があるから、船でチェックインできるようにするそうよ」
「へぇ、映画みたいだね。日本にもそういうリゾートがあるんだな。大人っぽいね」

これから敷地内に造ったヘリポートを使って、東京と京都から宿まで運んでくれるプランもできるんだって、と妻。いつの間に聞いたのか。でも、ワクワクした笑顔で語る妻の姿を見るのは、嬉しいもの。じゃあ次はヘリでお願いしますねと、また次回の旅もオーダーされてしまった。

ようやく腰を上げ、離れに戻る。時間はまだたっぷりとある。明日は何をするかを考えない自由で贅沢な旅のひと時を、ふたりで心ゆくまで味わいたかった。

文/奥 紀栄 撮影/遠藤 純