温泉通を唸らせる自家泉源を持つ
文人墨客、棟方志功も愛した名宿

里山に抱かれた静かな温泉街に到着すると、吉井川の清々しいせせらぎに包まれた。木肌が枯れ、風合いを増した家々がゆかしい歴史を物語る。

美作津山の初代藩主・森忠政が湯治場として愛した奥津温泉は、歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻や世界的な板画家・棟方志功といった文人墨客にも好まれた。

騒々しい歓楽街とは無縁の閑静な雰囲気は、芸術家が心身を開放し創作を行うのに最適だったのだろう。そんな奥津温泉に今日はひとりこもり、心身を整えて新年への英気を養うつもりだ。

風情ある環境に惹かれたのも、奥津を旅先に選んだ理由のひとつだが、一番の決め手は知人のひと言だった。「あそこは“本物の温泉”だよ。一度、浸かってみるといい」

温泉通の彼が言う“本物”とは、どんな湯なのだろうか。確かめたい気持ちが、足を奥津温泉へと向けさせたのだった。

奥津橋を渡って進むと、植栽に包まれてひっそりと佇む「奇蹟の湯 池田屋 河鹿園」に到着する。昭和の面影を残す懐かしい風情だが、趣を残しながら館内は和モダンに改装されている。

チェックインを済ませ、スタッフの案内で部屋へ。知人に勧められて訪れた旨を伝えると、スタッフは微笑みながらこう言った。

「“本物の温泉”というのは、自家泉源の源泉かけ流しだからです。加温・加水もしていません。混ぜ物は一切ない単純泉。源泉の温度は40.5℃で湯舟だと38.5℃ぐらいのぬる湯。程よい温度だから湯あたりせず、長い時間入っても大丈夫ですよ」

なかには2時間も浸かる猛者もいるという。湯への期待が膨らんだ。

案内された客室「蘭の間」は、広々とした8畳の和室に吉井川に面した広縁が付き、自家泉源かけ流しのジャグジー風呂もある。「奇蹟の湯 池田屋 河鹿園」の客室は8室全てが川に面しており、清流の川音が心地良い。

これだけの絶景とゆったりとした空間を、ひとり占めできる贅沢な機会は滅多にない。

早速、浴衣に着替えてお茶を入れ、広縁のソファに座ってくつろぐ。時間が止まったかのような空間に心身が同調し、肩の力が抜けて非日常の時間が過ぎて行く……。

気付けば1時間も浸っていた
湯あたりしない優しい温泉

 ひと休みした後、まず内湯へと向かった。「志功の湯」は広々とした内湯で、窓からは吉井川が見渡せる。湯殿の端から自家泉源の源泉が滔々と湧き、湯量の豊富さを物語る。「奇蹟の湯 池田屋 河鹿園」の温泉は無色透明で滑らか。

泉質は中性~弱アルカリ性の炭酸水素温泉で、湯舟に浸かってしばらくすると、微発泡した泡が肌を優しく包んでいる。湯殿の温度38.5度と聞くとぬるそうに思えるが、実際に入ると熱からずぬるからずの気持ちいい温度だ。

スタッフの言う通り湯あたりがなく、いくらでも入っていられそうだ。時間をかけてじんわりと温めてくれるから、体の芯までほぐれていく。

一般に、強い印象の湯のほうが、効きそうに思われている節がある。硫黄の香りが強い、色が白く濁っている、錆色がかっている……。もちろん、そうした温泉も魅力的だが、じっくり心身を癒したいなら、肌に優しく湯あたりしない湯のほうが適していると感じる。知人がなぜここを勧めてくれたのか納得がいった。

物思いに耽りながら湯殿に浸かっていると、いつの間にか1時間が経っていた。時間を気にせず自分のペースで過ごせるのは、やはりひとり旅ならではだろう。おかげで、こっていた肩もだいぶほぐれたようだ。

湯涼みを兼ねて、館内外をしばし散策する。吉井川の両岸には小径があり「奇蹟の湯 池田屋 河鹿園」の対岸は「歌の小径」と名付けられている。与謝野鉄幹・晶子夫妻が昭和8年(1933)に奥津温泉を訪れた際、詠んだ歌碑が並んでいた。

「大空の銀河のおとも似たるべし 奥津の湯場の山川の音」

晶子が詠んだ歌から、湯殿で清流の音に聴き浸っている彼女の姿をふと想像してみる。

館内に戻ると、世界的な板画家・棟方志功が設計に携わったという茶室へと向かう。「奇蹟の湯 池田屋 河鹿園」を興した光永大佑は、フランス文学者を目指して法政大学に学んだが、体を壊して昭和2年(1927)に故郷へ戻り「小美術館のような旅館を」と、この宿を造ったという。

文学や絵画、陶芸や茶道に通じた文化人だけに文人墨客との交流も多く、特に棟方志功を「日本のゴッホ」と呼んで暖かく迎えたという。棟方も光永を慕い、遂には「奇蹟の湯 池田屋 河鹿園」の新館建築の際、茶室の設計に全面的に関わることとなる。

棟方が「妙知庵」と名付けた茶室は、現在、外から見学できるようになっている。窓から中をのぞくと、奥津の深山から集めたというツツジの古木の床柱が味わい深い。杉皮の網代編みの天井には、棟方板画に通じる素朴な力強さが漲っている。これもまた、彼の貴重な芸術作品なのだ、と感嘆した。

棟方志功の世界にしばし浸っていると、愉しみにしていた夕食の時間が訪れた。地元産の食材や日本海の海の幸がふんだんに使われた会席は、目も舌も愉しませてくれる。特に岡山県奈義町産のブランド牛、なぎビーフのとろけるような味わいには唸るばかり。芳醇な香りと酸味が調和した地酒「加茂五葉」で舌を潤し、じっくりと滋味を噛みしめた。

就床前、一日の締めくくりにもう一度、温泉に浸ってみる。人気のない夜の湯殿でくつろいで目を閉じる。すると、温泉の湧く音と川音が二重奏のように重なった。「大空の銀河のおとも似たるべし」という与謝野晶子の歌を思い出す。滔々と湧く湯の中で、銀河や山川と一体になっていくかのような至高の開放感に、誰にも遮られずひとり身を委ねた。