通りから完全に隔絶された、まさに隠れ家的な温泉宿

南に安達太良山(あだたらやま)、西に吾妻山がたおやかに稜線を伸ばしている。深まりゆく秋の色調を帯びたその福島の名峰はどこか穏やか。山の頂が白い綿帽子をかぶるのも、もう間もなくだろう。

目指す土湯温泉は、その山ふところに抱かれるように拓けた静かな温泉郷だ。ユニークな温泉名はおよそ千年前、大穴貴命(おおあなむちのみこと)が陸奥の国に下る際、この地を流れる荒川のほとりを鉾で突いたところ、温泉が湧き出したという伝説に由来する。

温泉は“突き湯”と呼ばれ、いつしかそれが“土湯”に転じたとされている。また、病を抱えた旅人の夢枕に現れた聖徳太子が、「“突き湯”に霊泉あり」と告げ、湯治を勧めたという説もある。

清流・荒川沿いに温泉街が広がり、大小の宿が点在。土産物屋や土湯こけしの工房などもあり、どこか昭和の面影を残すのどかな町並みも味わい深い。今宵の宿「土湯別邸 里の湯」は、そんな土湯温泉の町並みから離れた入口近くにある趣深い温泉宿だ。

温泉街への道を少し外れて宿の看板が示す方向へと車を走らせるが、雑木林の中をカーブしながら下っていくアプローチに最初は少々戸惑いを覚えた。

「ねぇ、この道でいいのよね…」と連れ合いが呟いた頃(時間ではわずか1分ほどだが)、森にすっぽりと包まれるように佇む宿の建物が現れた。通りから完全に隔絶された静寂の立地はまさに隠れ家そのもの。まずはその風情に心が浮き立つのを覚えた。

どこかのお屋敷のような玄関口は打ち水されて清々しさを放ち、凛とした空気が漂っている。それは白木の引き戸を開けて中に足を踏み入れても同様で、建物内に華美な装飾や売店、自販機といった世俗的なものがまったくない。それが逆に質の良さを感じさせ、またいいのである。

「“我が家”感覚で、またはご自分の別荘でくつろぐように、ゆっくりとお過ごしください」と話す支配人の花井徳良さん。里の湯の創業は昭和59年(1984)。“土湯別邸”とあるように、町の賑わいから離れた福島の奥座敷として、土湯温泉に宿を構えたのだという。

「建物や露天風呂は渓谷の斜面に建ち、原生林に囲まれています。自然の花々や色づく木々、また、リスやカモシカ、ムササビなどの野生動物を見ることもありますよ」

和の情緒に満ちた全10室の客室の窓からはもちろん、渓流沿いに設えられた露天風呂や半露天風呂、古代檜内風呂などからも季節の移ろいを満喫。しかも全ての浴室が部屋ごとに入浴時間を予約して貸切ることができる。誰にも邪魔されることなく、温泉と自然を“ふたり占め”。そんな贅沢を妻に愉しんでもらいたくて、この宿を予約したのである。

心と体が芯から開放される野趣あふれる露天風呂

部屋に落ち着き、まずは和菓子と抹茶のもてなしを受ける。季節感あふれる和菓子は、料理長自らが手作りした逸品。これは今夜の料理も愉しみである。

ほっとひと息ついたところで早速浴衣に着替えて、最初に貸切り予約した露天風呂へ。うっそうと茂る杉木立の中の階段を下っていくと、渓流のたもとに“金剛の湯”と名付けられた2つの湯船があった。

檜と岩に縁取られた大きな湯船と、八角形の小さな湯船はいずれも野趣たっぷり。脱衣所は男女別になっているが、中に入ると一緒になるのは昔ながらの造りだろう(貸切りなので、脱衣所はどちらを使っても問題ないが)。

透明の湯が湯船の縁を越えて滔々とあふれ、葉影が湯面にゆらゆらと映り込んでいる。

「わぁ、気持ち良さそうね!」妻の声に押され、浴衣を脱ぐのももどかしくすぐにかけ湯をして湯船に体を滑り込ませた。瞬間、思わずもれる悦楽の声。柔らかな手触りの湯が体を包み込み、その心地良さに目を閉じた。

森のすがすがしい匂い、風が奏でる葉音のささやき、渓流の瀬音…。野鳥の声は秋の深まりと共に静かになるが、こんなに五感が研ぎ澄まされる感覚も久しぶりだ。

他にも樹齢千年の古代檜を使った木の香ゆかしい古代檜風呂のある大浴場、半露天風呂の付いた家族風呂などがあり、先述のようにそのどれもが完全貸切りシステム。

また、今回予約した和洋タイプの客室には専用の露天風呂も付いているので、まさに滞在中ずっと温泉三昧。いずれの湯船も温泉は全て源泉かけ流しだ。

「土湯温泉は温泉街から約2㎞先の荒川の源流沿いから湧出しています。温泉協同組合が管理する6本の源泉から温泉街へ供給されていて、当宿も毎分50ℓを受けています」と花井さん。

無色透明、アルカリ性単純泉は小さな湯の花がふんわり浮かぶ弱アルカリ性の柔らかな湯だ。豊かな自然の中、湯に浸かるほどに日頃の疲れがほぐれていくのを感じた。

部屋の窓の外に夜の帳が静かに下りると、いよいよ夕食の時間を迎えた。食事は部屋食なので、誰にも気兼ねなく料理をいただけるのもこの宿のいいところ。

供されるのは四季折々の地元食材をふんだんに使った会席料理。2カ月ごとに内容が変わるコース料理は和のテイストが基本だが、そこに洋食を一品彩るのが料理長のこだわりだ。

この日は先付や松茸の土瓶蒸し、焼き物などの中に、牛肉の煮込み料理が登場。ふくしま牛をデミグラスソースで柔らかく煮込んだ逸品は、赤ワインとの相性がいいが、甘口の地酒で味わうのも絶妙だ。

「とっても柔らかくてコクがあるわね。もう少しお酒も飲んじゃおうかしら」と、ほんのり頬を染めた妻も大満足の様子。今夜はちょっと飲みすぎな気もするが、それも時にはいいだろう。

文/岩谷雪美 撮影/秋 武生