街道茶屋や川魚料理店として培われた技を懐石に生かす

東に霊峰・比叡山、西には高野川の清冽な流れを望むこの地は、京を後にする旅人にとっては草鞋の緒を絞め直す場であり、京を目指して来た旅人からすれば、ほっとひと息ついた場であった。精のつくとろろ汁は、若狭方面へ向かう際に待ち受けている山越えに備えるためには、最適な料理であったと考えられる。

「江戸時代になると、当家は小浜城主の酒井家の脇本陣となりました。殿様が門前に乗り物を停め、休息するのが習わしとなったことから、小鯛と甘鯛を供したのです。京都では甘鯛を“ぐじ”と呼び、大変珍重しています。供侍の方々には竹皮に包んだ鯖寿司をお出ししました。とろろ汁だけでなく、日本海の恵みも売りにしていたのです」と、二十一代目当主の園部晋吾さんは語る。

こうして連綿と受け継がれてきた技と伝統だが、明治となった際には大きな変化を迎える。それは鉄道の開通によって街道は交通の主役ではなくなり、鉄道路線から離れていたこの地では、日本海の海産物が手に入りにくくなってしまったのだ。そこで目の前を流れる高野川や鴨川、さらには琵琶湖で獲れた新鮮な川魚を仕入れて、街道茶屋から川魚料理専門の料理屋へと転身を図ったのである。夏目漱石はその頃の平八茶屋に何度か足を運んだようで、日記や作品の中に名前が登場する。

昭和が終わりに近づいてきた頃、二十代目平八は川魚料理だけにとどまらず、昔のように日本海の魚を使った懐石料理を提供することを決意する。そして京都で珍重されていたぐじを使った「若狭懐石」を始めた。江戸時代はぐじを塩でしめていたが、新たな懐石で使用しているぐじは、言うまでもなく鮮魚であった。

伝統の技と旬の素材にこだわった極上の季節膳

川端通りに面した母屋と、平八茶屋の顔ともいえる正面の騎牛門は、ただならぬ風格に包まれている。母屋は寛政9年(1797)に建てられたもので、京都の景観重要建造物に指定されている。門は萩の禅寺から長州藩の姫君が嫁入りする際に京都へ移築されたもの。建てられてからすでに4、500年ほどは経つという。随所で400年の歴史を感じさせられ、圧倒されてしまう。

創業天正年間という文字が目を引く看板。
街道に面した騎牛門。
それをくぐり少し歩くと不老門があり、その先に中庭と部屋の棟が続く。

門をくぐり奥へと進むと、幽玄の世界に迷い込んだような、広く趣のある庭園が母屋と客間がある棟の間に広がる。今では車の交通量も多い川端通りの喧噪も、庭園の樹木に吸い込まれ嘘のように静かだ。案内された部屋は、落ち着いた書院造りの間。窓の外には高野川の美しい流れが心地の良い風情を醸し出し、食事を演出してくれる。

小部屋はテーブル席だけでなく座卓でも可。
窓の外は高野川がすぐ下を流れる。

若狭懐石はぐじをメインに据えた8品の料理からなる。ぐじは身が柔らかく淡白な白身魚であるが、ほんの少し塩を振ることにより、余分な水分が抜け、身はもっちりとして旨味が増してくる。冬の時期に旬を迎えるので、身に甘みが増してくるという。この日は「ぐじの若狭焼き」が供された。皮の部分がカリッと焼け、身はふんわりとして、甘みが鼻をくすぐる逸品だ。この季節のぐじは、刺身はもちろんのこと、焼いても蒸しても揚げても美味しくいただける。若狭懐石は月替わりでぐじの様々な料理が楽しめる。

甘鯛の美味さを絶妙な塩加減でシンプルに味わうことができるのが「ぐじ若狭焼」。
すりおろしたかぶらにとろみをつけ、白子に注いだ煮物椀。緑は壬生菜。

「蟹の砧巻き」は、やはり旬の季節を迎えた日本海のズワイガニを、薄くかつらむきにし、甘酢に漬けた大根で巻いた物。さっぱりとした大根の風味とシャキシャキの食感、それに蟹の旨味と甘みが追い打ちをかけてくる。老若男女、誰にでも好まれる味覚に仕上がっている。椀で主役を張るくも子(白子)のトロっとした濃厚な甘みも素晴らしい。

甘鯛と共に冬場に美味しさが増すズワイガニを使った贅沢なひと品。若狭懐石は1万3000円、1万6000円、2万円。

料理の最後には、伝統の「麦飯とろろ汁」が供される。上質の丹波産つくね芋を丹念にすりおろし、北海道礼文島香深浜で採れた天然の利尻昆布と鹿児島県枕崎産の本枯れ節の鰹節を使った秘伝の出汁でのばした奥ゆきのある上品な味だ。さすがは数えきれない人々の、舌と心を捉えたものだと得心させられた。

出汁の確認には細心の注意を払っている。
和風サウナとも言える貴重な「かまぶろ」も楽しめる。
内部は55~60℃で、むしろが敷かれている。そこに横たわれば自然と体全体から汗が出て、様々な体の不調に効く。

文/野田伊豆守 写真/むかのけんじ