江戸四宿として大いに栄えた新宿に差し込む光と影

この街は、いつもどこか寂しげな雰囲気が漂っている。一日約350万もの人々が利用し、世界一の乗降客数を誇る新宿駅。周辺は大手百貨店や飲食店、企業のビルなどが乱立する東洋屈指の歓楽街であるにもかかわらずだ。

その違和感を確かめるために、特に歴史ある古刹が今も残る二丁目をそぞろ歩いて街の歴史を紐解くことにした。

そもそも新宿という街の原型は元禄11年(1698)、甲州街道にできた宿場町・内藤新宿にまでさかのぼる。旅人のために設けられた茶屋や旅籠(はたご)で賑わった町、しかしその繁栄の影には幕府非公認の私娼、いわゆる飯盛女も数多く存在していた。

身売りされてきた女性も多く奉公の途中に病で若くして命を落とすこともあった。そんな彼女たちの投げ込み寺だった成覚寺が、今も町の一角にひっそりと佇んでいる。

「多くは20歳前後の少女だったんですよ」。そう住職の石川秀道さんは話す。その数は過去帳に記載されているだけで217名とされ、密かに埋葬された者を含めればさらに多くなるという。「身寄りのない遊女を供養してくれる人はいません。困った遊女屋はお金と一緒に遺体を置いていくこともあったようです」。

そして万延元年(1860)、旅籠屋の人々が協力して供養塔である子供合埋碑を建立した。石川さんの趣味だという庭の植栽が美しい境内。ふらりと立ち寄る外国人観光客も多いが、そんな歴史を知っているのだろうか。現在も同寺には供え物が絶えることがない。

遊女たちを供養した投げ込み寺
成覚寺(しょうかくじ)

靖国通りに面して立つ浄土宗の寺院。文禄3年(1594)に創建されたと伝わる。飯盛女たちを供養した子供合埋碑のほか、宿場内で心中を遂げた7組の男女の名が刻まれた旭地蔵、戯作者として知られる恋川春町の墓などが残されている。境内は住職の石川さんの手によって、季節の花が咲く美しい姿に保たれている。

住所:東京都新宿区新宿2-15-18
アクセス:東京メトロ「新宿御苑駅」より徒歩5分

人々を見つめ続けてきた閻魔大王

成覚寺のある靖国通りから、今度は新宿通り方面へと向かう。日中の路地裏は静かな雰囲気が漂っている。しばらく歩くと大きな地蔵菩薩像で知られる太宗寺があった。

正徳2年(1712)に江戸六地蔵の3番目として造立されたもので、7万2000名もの寄進者の名前が刻まれている。当時の江戸の人口が約100万人だったことを考えると大変な数である。

また、近くに住んでいた夏目漱石が子供の頃、地蔵に登って遊んでいたという逸話も残る。圧巻はお堂に安置されている閻魔(えんま)像と奪衣婆(だつえば)像である。

文化11年(1814)に安置されたという閻魔像は、関東大震災で大破し造り直されたが、頭部は当時のまま。江戸時代から「内藤新宿のお閻魔さん」として信仰を集めた。

また明治時代に閻魔大王に仕える奪衣婆像も制作された。これは近接する正受院の像に似せて造られたものだろう。三途の川を渡る亡者の服を剥ぎ取ることから妓楼(ぎろう)の商売神として信仰されたという。しかし住職の問川良元さんはこう話す。

「だって、誰だって喜んでできる仕事ではないじゃない。そこにはそうした世界から早く足を洗いたい、という女性たちの悲しみがきっとあったはずです」

問川さんは新宿の根底は変わっていない気がするという。他者を排除せずに様々なものを吸収して膨れ上がってきた街。成功者もいれば、敗者もいる。様々な思いが交錯しながら街は絶えず変化し、昼でもなく夜でもない狭間の時間を眠ることなく漂い続けているのだ。

子供を食ったという伝説が残る閻魔大王像は、恐ろしい形相でこちらを睨みつけている。しかし仏教では閻魔は地蔵菩薩と同じ存在なのだそうだ。迷える人々を救いとらんとする地蔵菩薩は、時として姿を変えて衆生を諌め、正しい道へと導く。この街の人々の欲望は一体どこへ向かっているのだろうか。新宿には、まさに悲喜こもごもの地獄と極楽が、今も渦巻いている。

閻魔大王が人々の心を見つめる
太宗寺(たいそうじ)

慶長元年(1596)頃に太宗という僧侶が建てた草庵が寺の前身と伝わる。江戸時代は現在の新宿御苑一帯を拝領した内藤家の菩提寺として厚く信仰された。閻魔大王像と奪衣婆像は、通常はお堂の外からしか拝観できないが、毎年7月15・16日のお盆に公開されている。盆踊りを楽しむ人々の姿は江戸時代から変わらないのだろうか。境内には参拝に立ち寄る会社員や地元民の姿があった。

住所:東京都新宿区新宿2-9-2
アクセス:東京メトロ「新宿御苑駅」より徒歩3分

※2016年取材

写真/遠藤 純