14820戦国の世の空気をまとい、実戦を見据えた造り「松本城」(長野県松本市)|案内人とともに松本城をあるく〈現存十二天守の城を知る〉

戦国の世の空気をまとい、実戦を見据えた造り「松本城」(長野県松本市)|案内人とともに松本城をあるく〈現存十二天守の城を知る〉

男の隠れ家編集部
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現存十二天守のなかで唯一の平城である松本城。信州の地にどしりと構える漆黒の姿からは、国宝たるその所以を感じずにはいられない。
目次

平らな地に造られた
黒い板張りが光る城

風を受け、雪を抱いた北アルプスを背に堂々とそびえ建つ松本城。現存十二天守のなかでも国宝のひとつに数えられる名城だ。日差しを受けた外壁の板張りが、きらりと黒く光る。

「板張りの黒漆は、年に一度、塗り直しが行われています。そうすることで風食や雨水を防ぎ、城の保存にもひと役買っています」と話してくれたのは、松本城管理事務所の研究専門員を10年務めた後藤芳孝さんだ。

松本城が黒い姿をしているのは、豊臣秀吉の影響が大きい。城に黒を好んだ秀吉は、大坂城にも黒を用い、瓦などには金を採用した華美な装飾を施した。そのため配下の大名たちの城も黒が多用されたわけだ。

一方、徳川家康は白を好んだ。姫路城に代表されるように壁には白漆喰を用い、秀吉とは対極の城造りをしたのだ。

正徳2年( 1712 )頃の図面。ここに描かれている建物の多くは焼失したり、取り壊されたりした。内堀が現在よりも広かったことが分かる。「信州松本城之図」松本城管理事務所蔵

現在残っている松本城は、天正18年(1590)、秀吉の命により松本城に封ぜられた石川数正が普請を始めた。しかしほどなく、数正は秀吉による朝鮮出兵に従って九州の名護屋城に出陣。出先で病死してしまう。

数正に代わり天守を建てたのは、戦に同行していた子の康長であった。康長は帰郷するとすぐに天守の築造に取りかかる。そして文禄2〜3年頃(1593〜94)に大天守と乾小天守を完成させる。さらに、二つの天守を結ぶ渡櫓を造り上げたと伝わる。

平成11年に再建された太鼓門。 火急の知らせや藩士の集合の合図、時刻の知らせなどに使われた太鼓があったことがその名の由来。

まずは城の外側から見ていきましょうと、後藤さんが案内してくれたのは、二の丸の東側にある太鼓門だ。

二の丸には外堀が張り巡らされ、まさに名城の風格を感じる。太鼓門の前の虎口は内枡形で、直角に設けられた城壁が敵の直進を妨ぎ、戦の際には攻めにくくなる仕組み。

また、虎口の前の土橋は、虎口に向かい幅が一段狭くなっている。これは、鵜の首という造りで、こちらも敵の侵入を防ぎ、塀の狭間から敵を討つための工夫だ。

さらに虎口から城内へ足を踏み入れ目に飛び込んでくるのは巨大な石と太鼓門だ。巨石は太鼓門の横にあり、玄蕃石と名付けられている。松本の東の山から切り出されたものだという。

なぜこんなに大きな石があるのか。それは松本城にある5つの門のひとつ太鼓門が本丸へと続く玄関の役割を果たしたから。権力の象徴でもあったのだ。

太鼓門をくぐるとすぐ右手に、二の丸御殿の跡が現れる。「当初は本丸御殿が藩主の政務所兼居館でしたが、享保12年(1727)に本丸御殿が全焼。二の丸御殿で政務を司ることになったのです」

藩主の部屋である御居間や、接見に使われた大広間のほか、雪隠まである。藩主も使っていただのだろうかと、武将たちを少し身近に感じる。

太鼓門から黒門に向かう途中、後藤さんが面白い話をしてくれた。「松本城の内堀は太鼓門の前で少し狭まっています。この部分に旧制松本中学校の校舎が建てられたからです」なるほど、よく見てみると堀が不自然に狭められているのがわかる。

廃藩置県により明治5年(1872)、松本城天守は競売にかけられ、235両(米価計算で約400万円)で落札された。信飛新聞社に関係していた市川量造は、新聞で天守を残すことの大切さを訴え、天守を会場にして博覧会を開き、その収益で天守を買い戻した。

「その後、時代と共に荒廃していく天守を憂い、改修に尽力した初代松本中学校校長の小林有也も松本城の恩人。今こうして松本城が姿を残しているのは、地域の人々による保全活動が大きな力となったのは間違いありません」

小林が行った明治の大修理のおかげで傷んだ瓦や壁が修復され、筋交を入れて補強された。しかし記録があまり見つかっていないため、その工法については不明な点が多い。

黒門を入った右手には、城を守った市川と小林の石碑が掲げられている。

城の随所に見られる
実戦に備えた造り

黒門を抜け、いよいよ天守が眼前に現れる。右手に乾小天守、中央に渡櫓と大天守。そして左手には辰巳附櫓と月見櫓がある。野面積みの石垣の上に、堂々たる存在感を放っている。

「松本城の天守は、連結複合式天守といわれています」と後藤さん。姫路城に代表される連結天守と、犬山城や彦根城の複合式天守が合わさった形式で、その所以は築造経緯にある。

記録では先述の石川数正の子・康長がまず大天守と乾小天守、それをつなぐ渡櫓を築いた。そして江戸時代となり、当時の城主の松平直政が辰巳附櫓と月見櫓を築造した。連結式天守と二つの櫓が複合しているため、独特の形式となったのだ。

ちなみに月見櫓は、時の三代将軍徳川家光が上洛の帰りに松本城に寄ることになり、直政が家光のために築いた。しかし実際に家光が松本城に寄ることはなく、月見櫓は当初の目的を果たせぬまま残された。

乾小天守の1階。耐震性の問題から、現在は見学のみで、中に入ることができない。

天守に足を踏み入れ、まず案内されたのは乾小天守。平成に入り耐震性に問題があることがわかり、現在は立ち入ることはできないが、その入り口から小天守の特徴を伺い知ることができる。

小天守には四角柱と丸柱が使われている。理由は、それぞれの柱を作った大工が違う、それぞれの柱が作られた時代が違うなど諸説あるが、小天守の方が大天守より古い時代に築かれたと考える説もある。

一方、大天守の柱は全てが四角柱。しかしその数に驚く。大天守一階には89本もの柱があり、内部には整然と柱が立ち並んでいる。

「今でいうパイル工法(基礎工事で打ち込む杭)のような形で、石垣の中には土台を支持する16本の柱を埋めて天守を支えています。この地域は扇状地のため地盤が柔らかく、土を盛り固めて石垣で押さえるだけではおそらく持たないのでしょう。また櫓部分を一体化するため、1階と2階、3階と4階、5階と6階をそれぞれ通しで繋いでいる柱が多用されています。加えて柱の位置を揃えて、天守の重さを支えているのです」と後藤さんは話す。

実際、大天守3階と4階の一角には、築城時に柱を持ち上げる際に使われたと思われる吹き抜け部分も残っている。そして不思議なのが、大天守の外観は5重だが、内部は6階。なぜだろうか。

「外から見ると、大天守2階の瓦屋根が少し広いのがわかります。3階は外から見てもわからないため、いざ実戦を見据えた際、武士たちが武装して集まる階と考えられています。また、こうした隠し階が作れるのは3階と4階に同じ通し柱を使っている櫓づくりであることが挙げられます」

松本城にはそうした設備が至る所に確認できる。通常、天守の角に設けられる石落としは中程にもあり、これが計11カ所。また大天守には矢狭間が40、鉄砲狭間は37カ所と多くあり、まさに実戦仕様になっている。

「松本城が合戦の舞台になることはありませんでした。この城には二十六夜神という守り神が祀られており、城を守り続けているといわれています」

大天守最上階の天井に祀られている神は、戸田康長の代に家臣の夢枕に現れ、「毎月26日の晩、三石三斗三升三合三勺の米を餅にして供えれば、城は栄える」と言い残したという。城の守り神は質実剛健な美しさを持つ黒い城を、今も守り続けている。

日没後、天守や黒門、太鼓門がライトアップされると、天守の白と黒の美しいコントラストが映える。

松本城(まつもとじょう)
長野県松本市丸の内4-1 TEL:0263-32-2814(松本市観光案内所)
開館時間:8:30〜17:00(入城は16:30まで。夏期・GWは延長あり)
休館日:12月29日〜31日 入館料:700円(松本市立博物館も観覧可)
アクセス:JR「松本駅」より徒歩約20分。
タウンスニーカー 北コース「松本城・市役所前」下車すぐ

※開城時間等についてはHP等で要確認。

撮影/遠藤 純


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