41726【ニッカウヰスキー】竹鶴政孝とリタの物語|ジャパニーズウイスキー黎明期を知る

【ニッカウヰスキー】竹鶴政孝とリタの物語|ジャパニーズウイスキー黎明期を知る

男の隠れ家編集部
編集部
ジャパニーズ・ウイスキーの黎明期を語るうえで欠かせない3人の人物がいる。ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝とその妻リタ。そして、サントリー創業者の鳥井信治郎だ。
目次

リタの支えがあってのニッカウヰスキーの第一号

明治維新後、急速な近代化を歩んでいた日本でウイスキー熱が高まった。それは国賓や外国の外交官を接待する際の飲み物としてウイスキーが必要だったからだ。もちろん当時、ウイスキーは庶民には高嶺の花だが、憧れは強かった。そこで安い外国産の酒に着色、香料を施した模造ウイスキーが売り出される。

この流れに一石を投じたのが大阪の摂津酒造。本格的な国産ウイスキー製造の必要性を感じ、ひとりの若手技師をイギリス・スコットランドに派遣する。その男こそが、後のニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝。政孝は広島県で現在も日本酒を造り続ける竹鶴酒造の三男で、実家を継ぐはずだったが洋酒の魅力に心惹かれ摂津酒造に就職したのだ。

大正7年(1918)、スコットランドへ着いた政孝は聴講生として大学に通った後、蒸溜所で約2年間、ウイスキー造りの実習を積んだ。その間、運命的な女性と出会っている。それが医師の娘・ジェシー・ロバータ・カウン、愛称リタである。二人は両家の反対を押し切って結婚する。一時、スコットランドで暮らすことも考えた政孝だったが、リタの「あなたの夢の手伝いがしたい」という言葉に後押しされ、大正9年(1920)に帰国するのだった。

スコットランドの蒸溜所で学んだウイスキー造りの詳細な内容が記された「竹鶴ノート」。これこそが、日本のウイスキーの出発点だ。
初代ポットスチル
テイスティングする政孝。余市蒸溜所でテイスティングする政孝。政孝は常に本物のウイスキーを追い求め、たびたびテイスティングした。眼光鋭く、威厳に満ちている。

しかし、第一次世界大戦後の日本の経済は冷え込み、摂津酒造に国産ウイスキーへ打ち込む資金力はなかった。政孝の夢は崩れ去ったかにみえたが、やはり国産ウイスキーの開発に情熱を燃やす鳥井信治郎との再会と決別によって、夢の実現へと前進していく。昭和9年(1934)、かねてからウイスキー造りに理想的な気候風土とにらんでいた北海道余市町での蒸溜所建設に踏み切るのだ。

幾度もの挫折に心折れることなく国産ウイスキー造りの夢を追い求められたのは、日本語の勉強に励み、漬物や塩辛まで手作りして、日本人より日本人らしいと評されたリタの支えがあったからだ。そして6年後、ニッカウヰスキーの第一号が発売され、長年の政孝とリタの夢がかなう。

木造平屋建ての創業当時の事務所は、今も余市蒸溜所に残されている。
日本で本物のウイスキーを造りたいという夢に生涯を捧げた政孝と、共に夢を追う道を選んだリタ。

本物だけを造る揺るぎない信念で国産ウイスキー誕生

第一号「ニッカウヰスキー」

昭和15年(1940)に完成した政孝の夢の結晶といえる国産ウイスキー、通称「ニッカ角瓶」。

ブラックニッカ

昭和31年(1956)に発売され、ジャパニーズウイスキーの定番となっていった商品。

スーパーニッカ

リタは昭和36年(1961)に亡くなった。翌年、亡き妻への感謝を込めて造り上げたウイスキー。

ウイスキーを最初に飲んだ日本人は?

江戸時代末期の嘉永6年(1853)、ペリー率いる黒船が日本に来航した事件までさかのぼる。交渉に当たった浦賀の与力は船上で接待を受けたが、その時に出されたのがウイスキー。特に香山栄左衛門は気に入ったふうだったとペリーの公式記録にある。

マシュー・ペリー

文/相庭泰志

▼あわせて読みたい

編集部
編集部

いくつになっても、男は心に 隠れ家を持っている。

我々は、あらゆるテーマから、徹底的に「隠れ家」というストーリーを求めていきます。

Back number

バックナンバー
More
もっと見る