近代登山の黎明期に新たな時代の扉を開く

ウォルター・ウェストンがイギリスから来日したのは明治21年(1888)、26歳の時である。宣教師としてやってきたものの、とりわけ彼の活動に目立ったものはない。というのも眼病の治療と称して、わずか2年ほどで辞任しているからである。マッターホルンの登頂など登山経験が豊富だった彼は、その後の活動を山行へと移す。明治23年(1890)に富士山へ登ると、それを足がかりに翌年には飛騨山脈、今日の日本アルプスへの第一歩を踏み出した。

明治26年(1893)はウェストンの日本滞在中、最も精力的な登山行の年といえる。富士の積雪期登山を敢行し、夏には針ノ木峠、笠ヶ岳、前穂高岳を単独で登るという計画を立てていた。8月3日に横川の駅に降り立つと、針ノ木峠を踏破。笠ヶ岳は麓の住民の反対によって挫折したものの、次なる目標の前穂高岳に意欲を燃やしていた。ガイドとして上條嘉門次を紹介されたのは、まさにその時であった。

当時といえばまだ地図がなく、山中に宿泊施設もなかった時代である。山に精通した案内人を雇うことが、登山活動に必須だった。とはいえ、登山案内人という職業があったわけではなく、登山者は山麓の村に住む猟夫に依頼し、かろうじて山を歩くような状況だった。その猟夫も熊やカモシカを狩るのが仕事で、系統的に山を歩いてはおらず、先導役に向かない場合も多かったという。 

登山ガイドとして不動の地位を築いた嘉門次

嘉門次もその時代、カモシカやライチョウ撃ち、イワナ釣りなどで生計を立てているひとりだった。嘉門次の父・有馬又七は樵きこりとして上高地に入っており、嘉門次も幼い頃から父に従っていた。時代が明治になるとそこに測量の役人がやってくるようになり、嘉門次は山の案内役兼下働きとして手伝うこともあったという。ほとんど上高地に常駐していた明治13年(1880)には、明神池近くに自分の小屋を造り、1年を通して暮らすようになっていた。 

こうしてウェストンの案内人として嘉門次に白羽の矢が立ったのだが、2人の初対面は実はあまりいい雰囲気ではなかったようである。それは、悪天候で先を急ぐウェストンと、それを拒む嘉門次との間に意見の食い違いがあったからだった。結局その日はあきらめて翌日に出発するのだが、豪雨による爪痕は想像以上に深く、それを目の当たりにしたウェストンは嘉門次の的確な判断に驚いたという。また重い斧で薮をなぎ倒しながら進む姿も頼もしく感じていた。そして麓の小屋から約6時間後、ウェストンは外国人登山者で初めて、穂高の一角に足跡を残すこととなったのである。 

いったん帰国したウェストンは、ロンドンで『日本アルプスの登山と探検』という本を刊行し、「ミスター・カモンジ」として写真付きで紹介した。これが、名ガイドとしての嘉門次の名を世に知らしめるきっかけとなったのは言うまでもない。また、大正に入ってからはスポーツや娯楽としての登山が盛んになったこともあり、嘉門次はガイドとしての地位を着実に固めていった。北アルプスの頂点のほとんどを極めた辻村伊助や、前穂高・槍縦走という大記録を達成した鵜殿正雄(うどのまさお)を案内したのも嘉門次であった。

ウェストンの上高地再訪、そして今も残る2人の息吹

そんな時、ウェストンが再びの来日を果たし、2人は18年ぶりの再会を果たす。ウェストンは夫人を伴って上高地を訪れ、すでに六十代半ばとなった嘉門次やその息子を案内人として雇って、奥穂高や槍ヶ岳などを案内して歩いた。大正2年(1913)のウェストン夫妻の奥穂高登頂は、奥穂高への女性の初登頂であった。現在残っているウェストン夫妻と嘉門次が並ぶ写真は、この滞在時のものである。 

このように60を過ぎても精力的にガイドをこなしていた嘉門次だったが、それから4年後の10月26日、70歳でついに帰らぬ人となった。また、ウェストンは母国に帰ってから執筆活動や講演で日本や日本アルプスを紹介し、1940年に脳出血で急逝。78歳だった。

現在も上高地では毎年夏山シーズンが始まる6月にウェストン祭が開かれ、その功績を今に伝えている。また、明神池のほとりでは嘉門次の曾孫にあたる輝夫氏が「嘉門次小屋」を営み、登山客を迎えている。その囲炉裏がある部屋の奥、すすけて黒光りするカモシカの角には、ウェストンが友情の証に贈ったとされるピッケルが今も大事にかかっている。


ウェストン碑

戦争という悲劇を乗り越え、上高地に戻ってきたウェストンのレリーフ。碑の前では毎年、ウェストン祭りが開催される。同じように碑や像を設置し、ウェストン祭を開催する地が日本各地に存在する。
ウォルター・ウェストン

モノクロ写真提供/嘉門次小屋