日本食にとって、最高の組み合わせとなるのが日本酒。夏には冷、冬には熱燗といったように季節ごとの楽しみがある。今回は日本で愛される、日本酒の歴史についてひも解いていこう。

稲作と深く関わる日本酒の起源

日本で初めて飲まれたお酒は、日本酒ではなく葡萄酒などの果実酒ではないかといわれている。縄文時代の日本は、稲作はあったものの水稲を育てる技術が伝わっておらず、この頃には米を使用したお酒がなかったようだ。実際、東京都町田市の清水台遺跡では、酒造用と考えられる土器の中からヤマブドウの種が発見されている。

その後、3世紀頃に書かれた『魏志倭人伝(東夷伝)』の中に、「喪主哭泣 他人就歌舞飲酒」という記述がある。これはお葬式の様子を表したもので、喪主は泣くが他の人々は歌い舞い酒を飲むという意味の文章である。

この記述にあるお酒がどのような種類であるかは具体的な記載がないが、713年ごろに編製された『大隅国風土記』の中には、「口噛み酒」というものが記されている。これは米を噛んで吐き出し発酵させるお酒だ。日本の歴史では弥生時代(3世紀頃)の話であり、ちょうど水稲の技術が九州地方に普及した時期である。

さらにこの時期、米で作られたお酒の記述は多くある。『播磨風土記』(716年)には干した米が水に濡れてカビが発生しているのを発見し、そこからお酒を造ったと記されている。

また、万葉集(759年以降)にもお酒を詠んだ歌があることから、多くの地域に広まっていたことがわかる。しかし、当時のお酒は今のような透明なものとは違い、濁っていてねっとりと粘度があった。

時代とともに変遷していく日本酒

奈良時代になると、朝廷の宮内省に酒造り専門の役所が設けられた。これは「造酒司(さけのつかさ/みきのつかさ)」という部門で、宮廷の年中行事で振舞われるお酒を造っていた。この頃まで日本酒は上流階級のもので、庶民はあまり飲めなかったとされる。

日本酒が庶民の間に徐々に広まり、今のような澄み切った清酒として確認されるようになったのは平安時代の頃だ。

この頃になると寺院や民間に酒造りが広まり、特に僧侶によってお酒造りが盛んになった。僧侶が作ったものを僧坊酒と呼び、奈良菩提山の正暦寺で作られた「菩提泉」は上質で高級なお酒だったとされる。これは酒母製法で作られた日本酒で、今の清酒の元ともいわれている。

さらに室町時代になると京都を中心に酒屋が誕生し、商品としてお酒が出回るようになった。それと同時に、幕府の財源を担うことになるお酒への税=酒税が定められたのだ。この時代の酒造りの手法は今現在にも残っており、清酒造りの基礎がこの時期にできあがったことがわかる。

そして、時代を経ていくごとにどんどんと手法は改良され、日本酒は一般的なお酒となっていく。しかし、明治の頃になると富国強兵策によって、酒税が強化されて自家酒造が密造とされた。酒税が日本の大きな財源となるため、資金源として日本酒造りにも力を入れるようになったのだ。販売方法も従来の量り売りだと水増しの不正に繋がることから、この頃に瓶詰めの販売が始まり、現在の主流である一升瓶が開発されている。

昔ながらの製法で行う酒造から機械で効率化を図る酒造まで、現代ではさまざまな酒造がある。それらで造られる日本酒は、長い年月を経て進化を遂げてきた。日本酒は世界でも認知されるようになり、「SAKE」と呼ばれて世の人々に親しまれている。