あまりに広い見識をもった異相の才人

異相の才人・佐久間象山の祖は、戦国時代に武田信玄を2度も破った名将・村上義清に仕えた佐久間大学とも、織田信長に仕えていた佐久間盛政ともいわれている。象山の父である佐久間一学国善は、信濃松代藩に5両5人扶持という徴禄ながら、藩主の右筆(ゆうひつ)として仕えていた。

若い頃からさまざまな分野で才能を発揮していた象山が広く世界に目を向けるようになったのは、藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任じられてからだという。

幸貫は洋学研究の担当者として象山に白羽の矢を立て、韮山代官の江川英龍のもとで兵学を学ばせた。ここで象山は兵学の素養を身に付けただけでなく、江川や当代一の砲術家・高島秋帆から技術を取り入れ、大砲の鋳造に成功したのである。

さらには苦闘の果てに西洋の原書を読める力を身に付け科学書、軍事書などを読破。そこで得た知識をもとに独力でガラスや望遠鏡、電信機などを製作したのだった。嘉永6年(1853)にペリー艦隊が浦賀に来航すると、視察にも出向いていた。

国立国会図書館蔵

貪欲さと行動的精神が物語る象山の武士道

これらの貪欲ともいえる旺盛な知識欲と、それを実践する行動的な精神こそが、象山が有する武士道の現れだといえる。

その考え方の根本は「東洋の道徳と西洋の科学技術、この両者についてあますところなく詳しく究めつくし、これによって民衆の生活を益し、ひいては国恩に報いる」という言葉に表れている。これはつまり東洋の道徳と、西洋の科学技術を身に付けることこそが、国や民の利益につながる、ということを説いたといえる。

元治元年(1864)には一橋慶喜に招かれて上洛。その際、慶喜に対し公武合体論と開国論を説いた。象山は「彼を知り己を知らなくては防御の策も立たず」と中国古典『孫子兵法』を用い、西洋技術を得て富国強兵に努めることを勧めたのだった。

しかし、そんな象山の言動は西洋かぶれに映り、同年7月11日、三条木屋町で攘夷派に暗殺されたのである。とはいえ、その志は勝海舟や河井継之助、坂本龍馬ら多くの門弟たちに引き継がれていったのである。

佐久間象山の広い視野を物語る名言

年二十以後、すなわち匹夫(ひっぷ)にして一国に繫ることあるを知る。
三十以後、すなわち天下に繫ることあるを知る。
四十以後、すなわち五世界に繫ることあるを知る。

これは、「人は成長を遂げるほど問題意識が大きくなり、それにつれて物事を見る目が広がり、さらには使命感も重くなる」という意味が込められた言葉である。佐久間象山が広い視野を持ち、日本の尺度には収まらないという大自信家ぶりがうかがい知れる言葉だろう。

吉田松陰や高杉晋作も象山の教えを吸収している。まさしく死してなお、その意思を受け継いだ者たちが象山の描いた“変革”を推進していったのだ。

文/野田伊豆守