23473〈誰も知らない江戸の奇才・河合敦〉|『赤ひげ診療譚』主人公のモデルとなった町医者「小川笙船」

〈誰も知らない江戸の奇才・河合敦〉|『赤ひげ診療譚』主人公のモデルとなった町医者「小川笙船」

男の隠れ家編集部
編集部
慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に政権を開いた。これにより1世紀以上続いた戦国の世は終わりを告げ、戦いくさに駆り出されたり居住地が戦場になる心配をせず、人々は安穏と暮せるようになった。そして、その状態は250年以上続いた。このため、自分の才能を磨いて大きく伸ばし、偉業を成し遂げる人間があらゆる分野で現れてくる。松尾芭蕉、平賀源内、杉田玄白、上杉鷹山、伊能忠敬、葛飾北斎などは、その代表といえるだろう。
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しかし、まだまだスゴい人物が埋もれている。その先人たちは、いずれも神から与えられたギフトを有する天才ではない。「楽しいから」「必要に迫られ」「他人のために」など、その理由はさまざまだが、皆、すさまじい努力や犠牲を払ったすえに高い能力を獲得した、知られざる「江戸の奇才」だ。

今回は、山本周五郎の小説のモデルにもなった町医者・小川笙船(おがわしょうせん)にスポットを当てたい。

享保6年(1721 )に御薬園が白山御殿地全体に拡張され、ほぼ現在の植物園と同じ形となった。現在は「東京大学大学院理学系研究科 附属植物園本園」( 通称:小石川植物園 )として親しまれている。

貧困の世にひとりの町医者が立ち上がった

東京都文京区白山にある「小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)」は、五代将軍徳川綱吉の貞享元年(1684)に幕府が設けた「御薬園」が前身になっている。御薬園とは、幕府が薬種(薬の原料にある植物)研究・栽培するための施設だ。

いまも小石川植物園は多くの植物が栽培されているが、園内の奥まったところに屋根付きの休憩所のような構造物がある。しかし、それは井戸の跡だ。享保7年(1722)に設置された小石川養生所で使われていた井戸だ。残念ながら当時の建物はなく、養生所の痕跡はこれだけ。今回はそんな養生所をつくった小川笙船について語ろうと思う。

八代将軍・徳川吉宗が将軍をしていた享保時代は、農村に貨幣経済が浸透して階層分化が進んだ。このため土地を手放した貧農が生活のために続々と江戸にのぼってきた。

町人地だけで人口は50万人を超え、1キロ平方メートルに6万9千人もの人間がひしめきあう状態になった。とはいえ、江戸の町に来てもろくな仕事があるわけではなく、裏長屋に住んで棒手振や日雇いでどうにか暮らしを立てていた。

麹町に住む町医者の小川笙船は、この悲惨な状況を心から憂いていた。もともと小川氏は近江の出身で、笙船の祖父・俊広は駿河大納言忠長卿(家光の弟)に鷹匠頭として仕えていたという。しかし忠長は改易の憂き目に遭い、父・利重のときに江戸に出てきたのだろう。

なお笙船の住む麹町は、江戸の中心地から外れた四ツ谷御門外で、貧しい者たちが集住し、病気になっても治療代や薬代に事欠く人びとばかりだった。

笙船はできる限り多くの貧民を安く診察したが、とてもすべてを救いきれるものではない。そこで考え抜いたあげく、目安箱に投書して将軍吉宗に窮状を訴える決意をした。享保7年(1722)正月のことである。

果たして将軍吉宗に、貧しい民たちの声は届くのか?

徳川吉宗は紀州藩主・徳川光貞の 四男。藩主から将軍となった。享保の改革を行い、年貢増徴や実学奨励、倹約令などを通じて幕政の再建を目指した。江戸幕府中興の祖と呼ばれている。

目安箱は、庶民から広く意見を求めるため、吉宗が前年に設けた制度だった。評定所(幕府の最高議決機関)前の腰掛けに箱が置いてある。ここに氏名と住所を書き封をして要望を提出してよいことになった。いわば直訴を認めるわけだから画期的なシステムだった。箱の鍵は吉宗本人が持っており、自ら箱をあけて開封し、目を通したといわれる。

十九条に及ぶ笙船の意見を通読していた吉宗は、施薬院設立の建議の項目に目を止めた。

貧しい人びとが病気になったとき、無料で薬を与える施設をつくってほしいというのだ。そこで吉宗は翌2月、側近の有馬氏倫に命じて詳細を笙船から聞き取りさせた。

笙船は次のように述べた。

「施薬院、仰付なされ候はば(設置してくだされば)、有り難き仕合せに存じ奉るべく候。町々極貧の病家を調候候ところ、不便千万の仕合(非常に憐れむべき状態)とも御座候。武家方より奉公人(使用人)を大病に付、請人(保証人)方へ返し申候処、請人も親類にても御座無く候者は、さんざんに看病(いいかげんな看病)仕り候無道(ひどい)の人も多く御座候。そのほか無縁の者(親類ではない者)、あるいは妻子など御座無候貧民の相煩(病気)には見殺に仕り(見殺しにする)候事も多く御座候」(『享保撰要類集』)

これを聞いた吉宗は、施薬院の設置を決意した。担当者は江戸町奉行の大岡越前守(南町)と中山出雲守(北町)となった。こうして施薬院設置構想が町奉行所ぐるみで進んでいったが、笙船は「施薬院をつくり、看病人のいない貧しい病人を入院させ、幕府の医師が交代で治療にあたる。養生所の看病人には身寄りの無い人びとを雇用する。その財源については、町名主制度を廃止し、各町が彼等に支払っている役料を設立費や維持費にあてていく」と提案した。

町名主というのは、町奉行所の御触れや申し渡しの伝達、紛争の仲裁、さらには各町内における事務を請け負う者たちで、その職は世襲で、家業を営むことを禁じられるかわりに町々から役料を得て生計を立てていた。この時期、町名主は260人ほどいた。

ただ、彼等の評判はよくない。だから笙船は「院料(施薬院の費用)の儀は、ご当地町々の名主御停止になされ、(略)名主料金を町々より差し上げられ院料となされ(略)当時の名主共は、欲心奢る(欲張りでおごっている)のみにて御座候あいだ、かえって御政道の妨げ(政治のさまたげ)に罷り成り候」(前掲書)と述べる。

これに対して大岡越前守らは、「そうは言ってもいま急に町名主制度を廃止してしまったら、混乱するだろう」と躊躇した。それでも笙船は食い下がったが、結局、却下された。運営費は、幕府が所有する町屋敷地の代金から支出することになったのである。

施薬院は正式に養生所と名付けられ、冒頭で述べた御薬園の敷地内に設立されることに決まり、こけら葺き長屋が建設された。

念願の養生所はできたが、根拠のない噂が笙船を悩ませる

小石川養生所は町奉行所の管轄下に置かれ、与力2名、同心10名が出向して事務にあたり、それとは別に男8名、女2名が看病・賄い・炊事・洗濯のために雇われた。

小川笙船は肝煎と呼ばれる、いわゆる最高責任者(病院長)に任じられた。さらに幕府お抱えの小普請医師ら8名が担当医に任命された。いずれも名医として評判の高い人びとだった。いかに優秀だったかは、勤務医のなかに将軍にお目見えを許された者や、のちに御番医に推挙される者が多くいたことからもわかるだろう。

「今度、小石川御薬園において、病人養生所仰せ付らるるの間、町々極貧の病人、薬も給し兼ね候体の者、あるいは独身にて看病人もこれ無く、または妻子これあり候得共、残らず相煩い養生まかり成らざる者のたぐい、右養生所へ罷り越し、逗留致し候て、治療うくべく申し候」(『徳川禁令考』)

同享保7年12月26日、養生所の開設にともなって、右のような町触れが出された。

ところが、全く予期しない事態が発生したのである。年が明けても、さっぱり患者がやって来ないのだ。理由はすぐに判明する。養生所に関するよくないうわさが、江戸市中に広まっていたのである。

「入院患者は、薬園で栽培された薬草の効力を調べるための人体実験に使われる。個人の病状を考慮えず、1つのヤカンで煎じた同じ薬を無理やり飲まされる」といった根も葉もないデマだった。

これまで江戸幕府が庶民に対してこのような手厚い施設をつくったことはなかった。「きっと裏に何かあるに違いない」そう警戒したのであろう。

ただ、それだけが不人気の原因ではなかった。笙船が廃止しようとした町名主たちがからんでいた。養生所に入院するためには、町名主の印鑑をもらうなどの手続きが必要だった。町名主たちは、それを面倒に思い、病人に養生所を勧めなかったようだ。

笙船への反感もあったのかもしれない。閉口した笙船は、現状を大岡越前守に相談する。越前守はこのとき、名奉行ぶりを見せた。町の顔役である江戸中の町名主を養生所にかき集め、現地説明会を開催したのだ。前代未聞のことだろう。

これにより、うわさはデマと判明、養生所には、救いを求めて病人が殺到するようになった。入所患者には夏冬の衣類、鼻紙が支給され、夜着、布団、蚊帳が貸与された。もちろん、治療代は無料である。 

生涯を通じて患者の治療を優先し続けた

その後も笙船は、養生所のトップとして施設や待遇の改善に全力を尽くした。入所手続きの簡略化を手始めに、収容人数を当初の40名から150名に増員させた。また、寺社奉行支配地の者や行倒人までも治療の対象とした。

さらに、本道(内科)に加え、外科と眼科を新設して総合病棟化するとともに、夜間の急患に備えて、小石川近在の藩医と契約を結び、医療体制に万全を期した。

享保8年、養生所設立の功により、笙船は幕府の医官に取り立てるとの辞令を受けた。だが、病を理由にこれを辞退し、世話人職も同11年には息子に譲り、以後、一医師として患者の治療に専念した。無欲な人である。それから笙船は38年もの月日を生き、宝暦10年(1760)6月14日、89歳でこの世を去った。

長夢院暁誉笙船居士―これが小川笙船の法名である。長い夢の後に、白々と夜が明けてゆく。それはまさに日本の社会福祉史に黎明をもたらした彼に似つかわしい名ではないだろうか。

ちなみに小川笙船は、それから200年後、山本周五郎の時代小説『赤ひげ診療譚』の「赤ヒゲ」のモデルになった。

小川笙船は小石川の光岳寺に埋葬され、横浜の太寧寺に分骨された後に雑司が谷霊園に改 装された。場所は1種5号4側。「家族之墓 小川笙船藤廣正」と墓碑に刻まれている。

文/河合敦
1965年、東京都生まれ。歴史研究家、歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『誰も知らない 江戸の奇才』(サンエイ新書)など。隔月刊誌「時空旅人」で「続・江戸の奇才」を好評連載中!

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