酒の美味さの秘密は3本の「川」にあった
古来、水運の要衝として栄えた京都・伏見。「灘の男酒、伏見の女酒」と称され、今もなお日本有数の酒どころとして知られている。幕末の色を残したこの町は、京都市の南の玄関口として、桂川、鴨川、宇治川の3つの川に沿って平野部と桃山丘陵を南端とする東山連峰の山並みから構成されている。伏見の酒がここまで発展した背景には、この桃山丘陵から湧き出る良質な地下水脈が豊富であることが挙げられる。
伏見の酒が女酒といわれる所以には、水質が大きく関係している。日本酒はミネラルが多く含まれる水であるほど、早く発酵が進み、はっきりとした濃厚な味わいになる。伏見の水は中硬水で、ミネラルがほど良く含まれ、ゆっくりと発酵させることから繊細で優しくまろやかな酒になる。上質な水が湧き続けているからこそ、今もなお飲み口の良い伏見の酒を味わうことができるのだ。
現在、伏見には23の酒蔵がある。寛永14年(1637)の月桂冠の創業をはじめ、「富翁」の北川本家など多くの酒蔵ができた。今回は、この歴史深き町に残された日本酒を中心に地酒を紹介する。
有名なのには理由があった酒どころとして栄えた主な理由
《 良質な水に恵まれたため 》
伏見はかつて“伏水”と書かれていたほどに、質の高い伏流水が豊富に流れる地。桃山丘陵をくぐった清冽な水の水質は、カリウム、カルシウムをバランス良く含んだ中硬水で、酒造りに最適の水となる。
《 水運の要衝として栄えたため 》
伏見の酒造りの伝統が花開いたのは安土桃山時代。豊臣秀吉の伏見城築城と共に伏見は大きく栄えた。さらに江戸時代には水運の要衝としてますます発展。酒造家も急増し、銘醸地の基盤が形成された。
意外と知らない始まり~発展 伏見の清酒の歴史
安土桃山時代
豊臣秀吉が文禄3年(1594)に伏見城を築城。交通の要所と水の豊かさを背景に酒造業が興隆。
江戸時代
多く存在した造り酒屋も鳥羽伏見の戦いでそのほとんどが焼けてしまい、その多くが廃業。
明治時代
明治22年(1889)には東海道線が全線開通。東京をはじめ各地へと出荷されるようになる。
大正時代以降
大正時代には酒造業が飛躍的な成長を遂げ、町の経済も発展。昭和期には清酒生産量第2位に。
昔の蔵人たち
明治時代、月桂冠。本材木町の工場で瓶詰めをする様子。
昭和時代、招德酒造。約40度の室内で作業をする蔵人。
昭和時代、齊藤酒造。蒸米掘りをする蔵人の風景。