Phase.1(1931~ 1932)
日本の政治の行方を左右した満州事変と満洲国の建国

昭和7年(1932)に勃発した第一次上海事変。出典/wikipedia

関東軍高級参謀の河本大作大佐らは、中国大陸への利権拡大を画策し、昭和3年(1928)6月4日、軍閥の張作霖爆殺事件を起こす。

この計画は、張の亡き後で混乱する満州へ侵攻し、これを支配するというものだった。だが海軍首脳部の「イギリスやアメリカとの戦争になる」という猛反対により、失敗に終わる。

事件の責任を取り、総辞職した田中義一内閣に代わり、昭和4年(1929)7月、国際協調路線の浜口雄幸内閣が発足。しかしこの年の10月24日、ニューヨーク証券取引所で起こった株の大暴落をきっかけに、世界は出口の見えない不況に突入してしまう。

浜口は金解禁や緊縮政策、産業合理化などを断行。さらに翌年には、ロンドン海軍軍縮条約を締結。 だが浜口の軍縮政策は右翼の反感を買い、昭和5年(1930)11月14日、東京駅で右翼活動家の放った凶弾に倒れた。翌昭和6年4月13日に内閣は総辞職。翌14日には第2次若槻礼次郎内閣が組閣される。若槻は浜口の国際協調路線を継承した。

ところが昭和6年9月18日の夜、奉天近くの柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破された。関東軍はこれを中国東北軍の仕業ときめつけ、付近で夜間演習中だった独立守備歩兵第2大隊第3中隊を現場に派遣。

さらに奉天、営口などに駐留していた部隊に満鉄沿線の主要都市を制圧するように指示。日本政府は不拡大方針を表明するが、現地軍はそれを無視して戦線を拡大。満州全土を制圧する。

その結果、12月11日に若槻内閣は総辞職し、犬養毅に大命が下る。昭和7年(1932)3月1日には、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を迎え、満州国が建国された。

犬養はこの満州事変を、中華民国との話し合いで解決する意欲を示した。それは、満州国の形式的領有権は中国であると認めつつ、実質的には日本の経済的支配下に置く、というものだ。 だが犬養の姿勢は、弱腰に映ってしまう。

その結果、昭和7年(1932)5月15日、海軍将校と陸軍士官候補生が首相官邸を襲い、犬飼首相を射殺する五・一五事件が勃発する。犬養の後継首相選びは難航し、元老の西園寺公望は政党内閣を断念して、元海軍大将の斎藤実を奏薦した。ここに政権交代が行われる政治は終焉し、第2次世界大戦終結後まで復活することはなかった。

Phase.2(1936)
二・二六事件、軍部の発言力が増大し、国際社会での孤立は深まる

急進的な陸軍青年将校が天皇親政の下で、国家改造(昭和維新)を遂げようと決起した。出典/wikipedia

満州事変直後、中国からの提訴を受け国際連盟理事会は、リットン卿を団長とする調査団を派遣した。2月から日本、中国、満州で実地調査を行い、9月4日には報告書が完成する。

それには「日本の軍事行動は自衛措置ではない」とあった。昭和8年(1933)2月24日の国際連盟総会で、日本の主張を否認するこの報告書が、賛成42対反対1、棄権1で採択された。その結果、日本は国際連盟脱退を決意したのである。

昭和11年(1936)2月26日未明、急進的な陸軍青年将校が所属部隊から約1400人の兵を率いて、首相官邸などを襲撃。内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害した。

さらに政治や軍事の中枢である永田町から三宅坂一帯を占拠した。この二・二六事件は反乱として厳しく処分されたが、以後は政界にクーデターの恐怖を植え付け、軍部増長の要因となった。

そしてこの年の11月25日、日本はドイツとの間で国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗するため「日独防共協定」を結んだ。翌年にはイタリアも参加。三国は次第に歩調を合わせるようになっていく。

Phase.3(1937〜1941)
盧溝橋事件から仏印進駐、そして日中戦争、第二次世界大戦へ

盧溝橋の空撮。出典/wikipedia

その翌年の昭和12年(1937)7月7日22時40分頃、北京の南西約18㎞の場所にある廬溝橋近くで夜間演習中だった日本の歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、数発の銃弾が撃ち込まれた。この盧溝橋事件が日中全面戦争への引き金となった。

最初の一発を放ったのは、日本軍による自作自演だという説が主流であった。だが近年の研究では、国民党正規軍に入り込んだ、中国共産党のスパイであったことがほぼ判明している。共産党軍兵士のためのパンフレットにも「蘆溝橋事変は、わが優秀なる劉少奇同志の指示によって行われた」と記述されている。

支那事変駐屯歩兵第一連隊第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、盧溝橋の約1km北西にある永定河の右岸、竜王廟付近で夜間演習を行っていた。北平(北京)には連隊本部が置かれていた。

いずれにしても、日本軍側が攻撃を開始したのは最初の射撃を受けてから7時間後であった。しかしこの争いは、そのまま日中全面戦争へと発展してしまったのである。

戦争中、日本は船津工作、トラウトマン工作、宇垣工作など、数々の和平工作を試みた。しかし中国側代表の蒋介石は、交渉のテーブルに就くことはなかった。そして戦闘は日本軍が進撃すると中国軍は適当に戦い、撤退や逃走を繰り返す。そのため日中戦争は泥沼化。それでも日本が太平洋戦争で敗戦するまで中国の命脈が保ったのは、アメリカやソ連などから支援があったからだ。

特にアメリカが考えていた太平洋と大陸政策にとって、日本は邪魔な存在であった。日本を排除すれば太平洋はアメリカの海となり、日露戦争終結時から狙っていた巨大な中国市場も手に入る。

そこでアメリカは戦略物資の対日輸出に制限をかけた。その一方で、正式な戦争ではないという理屈をつけて中国には戦略物資を援助していたのだ。

アメリカは昭和14年(1939)7月28日、対等な貿易の手続きを定めた「日米通商航海条約」の破棄を通告。そんな中、同年9月1日に欧州で第2次世界大戦が勃発する。こうした状況を打破するためにも、日本はドイツとの関係を密にした。

1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、同年9月から日本は資源獲得と援蒋ルート遮断を目的に、フランス領インドシナに進駐。アメリカ、イギリス、オランダとの対立は決定的なものとなった。それでも日本は、日米交渉に望みを抱いたが、戦争の足音は遠ざけられなかった。

文/野田伊豆守
出版社勤務を経て、フリーライターとなる。歴史、旅行、鉄道など幅広いジャンルに精通。主な著書に『太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)『東京の里山を遊ぶ』『旧街道を歩く』(共に交通新聞社)など。

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