25201終戦75年「なぜ、日本の戦後は終わらないのか?」成田龍一(歴史学者)|我々は戦争をどう語り継いでいくのか

終戦75年「なぜ、日本の戦後は終わらないのか?」成田龍一(歴史学者)|我々は戦争をどう語り継いでいくのか

男の隠れ家編集部
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8月15日。日本人にとって特別な日である。毎年この日を迎えると、日本では戦前戦後を振り返る営みが続けられている。今年は終戦75年という節目の年であり、体験から記憶の時代へと変わりつつあるなか、我々はこの戦争をどう語り継いでいくのかが問われている。今回は、歴史学者成田龍一氏の寄稿を紹介する。
目次

文/成田龍一(歴史学者)
なりた・りゅういち
1951年生まれ、大阪市出身。83年早稲田大学大学院文学研究科日本史専攻博士課程修了。文学博士(史学)。86年東京外国語大学外国語学部助教授。90年日本女子大学助教授。96年より日本女子大学人間社会学部現代社会学科教授を務め、2020年に定年退職。現在、名誉教授。主な著書に『近現代日本史との対話【戦中・戦後―現在編】』(集英社新書)、『近現代日本史と歴史学 書き替えられてきた過去』(中公新書)、『「戦後」はいかに語られるか』(河出ブックス)、『戦後史入門』(河出文庫)など。

四半世紀ごとの時代の切れ目から読み解く

いまからちょうど半世紀前の1970年、男性二人のグループ・ジローズが歌う「戦争を知らない子供たち」という歌がはやった。「戦争が終って、僕等は生まれた 戦争を知らずに、僕等は育った」という歌い出しで、おりからの学生運動や市民運動のさなか、「戦争を知らない」と繰り返した。新しい世代の自己主張であり、戦争を担ってきた親の世代に対する対抗でもあった。親の世代の戦争が「アジア・太平洋戦争」であるとき、 彼らがみていたのはベトナム戦争であった。だが、いまやこの歌も知らない世代が、大多数を占める時代となり、隔世の 感がある。

1970年は、高度経済成長のただなかにあった。この歌もはじめは、高度経済成長を象徴するかのような日本万国博覧会(大阪万博)で歌われた。しかし3年後の1973年、第4次中東戦争に端を発するオイルショックによって、高度経済成長は終わりを遂げた。途中、バブル景気などを経て現在の不況に至っており、これまた時代の進展は著しい。

1945年からの射程で考えるとき、 75年を数える〈いま〉にいたる時間のなかで、さまざまな出来事がおこり、戦後の切れ目が意識される。さきの事例が示唆するのは、1970年前後の大きな切れ目である。1970年までの最初の25年間、そして次の1995年までの25年間、そして最近の25年間と、四半世紀ごとの切れ目を付けてみると、日本社会の様子、世界のあり方の推移がうかがえる。 この心象風景による戦後史像を図示すれ ば、下記の【図1】のようになる。

【図1】
A:1945「体験の時代」
  |
  |
B:1975「証言の時代」
  |
C:1995「記憶の時代」

さて、この75年間を「戦後75年」とするとき、まずは「戦後」という言い方が 論点となる。「戦後」という言い方は、 戦前の反対語として採用されている。戦争ではない時代として考えるがゆえに、 アジア・太平洋戦争が終結した1945年の切れ目が出発点と意識されるのである。さきの「戦争を知らない子供たち」 には「平和の歌を歌いながら、僕等は育った」という歌詞がある。戦争が終り、 それなりの「平和」がみられた時期だと 彼らは認識していた。

【図1】Aの時期には、戦争の語り方も体験を伝えるという語り方であったが、 Bの時期には自らの経験を「証言」として伝えることとなる。そしてCの時期に は「記憶」として語るようになる。

Aの時期には、「戦後民主主義」が唱えられ、「戦後思想」が主導的な力をもった。 かつての戦争を批判するとともに、再びの戦争を拒絶する態度によって、近代の制度をもつ国民国家を作り出そうとする 志向を持っていた。日本の近代は、理想の国民国家からするとき、遅れたり、歪 みをもっており、封建的な要素が残っていると把握し、あるべき近代―国民国家を目指した。

だが、Bの時期になると、「戦後」は大きな転回を遂げる。1970年前後を区切りとし、1980年代には「戦後思想」 にとって代わるようにして「現代思想」が登場する。また、「戦後」の精神が禁欲・ 節約を基調とするとき、この時期からは消費がもてはやされ、お洒落でファッショナブルな服装やレストランが紹介されるようになる。

高度経済成長のなかで、 消費者的な身体が身につき、人びとの心性が変化する。そして、そのひとつの頂点としてバブル経済があった。 高度経済成長によって日本のGNPは、 資本主義諸国のなかで(アメリカに次いで)第二位に飛躍し(1968年)、1970年代前半には、自らの生活水準を 「中」と回答した人びとが9割を超えている。「一億総中流」とよばれた。

高度経済成長に着目した戦後史像として、社会学の見田宗介(みたむねすけ)『現代日本の感覚と感情』(1995年)が三つの時期を示した。見田は、それぞれの時期における「現実」との対照のもとに、「理想」の 時代、「夢」の時代、「虚構」の時代との名づけを行った(【図2】)。

【図2】
1945 プレ高度成長期「理想」の時代


1960 高度成長期「夢」の時代

1973(75) ポスト高度成長期「虚構」の時代


1995

しかし、1991年にバブル経済がはじけたあと、1995年以降は、あらたな状況に入り込む。1989− 91年にかけては冷戦体制が崩壊し、世界のありようも激変する。こうしたなか、「戦後」といったときの本体は、高度経済成長期にあることが、この時期に確認されていく。 このことは、 55年体制(政治体制)―高度経済成長(経済体制)―冷戦体制(国際関係)を一体のものとして考える歴史認識ということでもある。

戦後史を描く、歴史学者・中村政則『戦後史』(2005年)は、【図3】 のように、戦後の成立―定着―ゆらぎ― 終焉という流れと把握を提示している。

【図3】
1945 戦後の成立


1960 戦後の定着

1970 戦後のゆらぎ

1980

1995 戦後の終焉

中村は1935年生まれで「戦後史執筆に有利な立場にあった」と述べ、叙述を行った。中村が、「戦後」を時間順序通り描くのは、自らの成長と戦後史の展開が併行しているからである。

けれども中村によって、「戦後の終焉」 とされたなかを生きる新しい世代にとっ ては、この中村の描き方――戦後史には承服できないであろう。中村が、〈いま〉 を固定し、〈いま〉の高みから「戦後」を、 まるで解剖のように静態的に扱っているためである。若い世代の生きる〈いま〉 が見えてこない。

だが、中村の名誉のために、急いで付け加えておけば、中村の把握は歴史学界 の嫡流であり、教科書もこの叙法によっている。また、中村のみならず、「戦後」 に生まれたものでも1970年代までのものは(「戦後」がゆらぎを見せる前に生誕したものは)、必ずしも中村の図式に苛立ちを示すことはなかろう。

歴史を考える営みとは、〈いま〉と〈過去〉との対話からはじまる

評論家の斎藤美奈子は、戦後生まれを二つに分け、1970年代までに生まれたものを「戦後第一世代」、それ以降に生まれたものを「戦後第二世代」と命名した。「戦後第一世代」は両親が戦争経験世代であり、戦争経験を直接に伝えら れたこともあり、共通性を有しているといいうる。 すなわち、自らの体験に基づきながら〈いま〉を生きるなか、〈いま〉を考えるために、〈過去〉の出来事を想起するのである。そのゆえに、「戦後」を考えたとき、いくつもの切れ目が現れてくると同時に、論者によって、重なりとズレが出てくる。すでに見田と中村では、戦後像が異なっている。

このことは、歴史を考える営みとは、〈いま〉と〈過去〉との対話であり、〈過去〉の出来事をその文脈で把握したうえで、〈いま〉の観点から意味づける行為ということを意味している。そのため、世代や体験によって見え方がまったく異なって来るのである。

ひとつの例として、〈いま〉と、〈過去〉の高度経済成長との対話をあげてみよう。そのとき、対話とは、まずは高度経済成長の内在的な理解から始まる。高度経済成長の時代には、その時代の価値観があり、思考方法と行動の作法があったということである。

だが、高度経済の人びとの思考をあきらかにして、そこで立ち止まってしまっては、これまた対話とはならない。そのときの思考方法を理解したうえで、〈いま〉の思考を再考して、はじめて対話となる。片方を固定したまま、一方向の動きを回避し、〈いま〉と〈過去〉を往還する営みこそが、歴史を考察するということとなる。

平和の火(沖縄県)
沖縄の平和祈念公園にある「平和の火」。沖縄戦最初の上陸地である座間見村阿嘉島で採取した火と、2つの被爆地・広島の「平和の灯」と長崎の「誓いの火」を合火したものである。

「戦後」の出来事を並べ立てるのではなく、〈いま〉の観点から、〈過去〉の文脈を理解しながら、意味づける営み。となれば、この営みが多様化し多元化することは当然であろう。

かくしてさまざまな切れ目をもつ、多様な「戦後」の姿が浮上してくる。また、歴史は事実そのものではなく、事実(出来事)をめぐる解釈である、ということともなる。

ふたつの点を付け加えておこう。なるほど、歴史は解釈であり、それゆえに多様な解釈が出され、歴史が豊かになる。しかし、だからといってあらゆる解釈が可能とはならないということである。どう考えても無理筋の解釈、牽強付会(けんきょうふかい)も、歴史においては許されない。解釈に伴う対話と議論によって、恣意的な解釈は排され、淘汰され、妥当な解釈が生み出されることとなる。

いまひとつは、〈いま〉を考えたときにも、その〈いま〉も、時間によってずれていくことである。1995年に、識者の「戦後論」が集中しているのは、敗戦から50年というタイミングとともに、この年に、阪神・淡路大震災があり、さらにオウム真理教による地下鉄サリン事件があったことが大きい。戦後の曲がり角を意識させるような事件で、あらためて「戦後」とはなにか、という問いかけのもとで、議論がなされたのである。

そして、その1995年の問題意識も吹き飛ばしてしまうかのような、2011年の東日本大震災、2020年の新型コロナウイルス禍という出来事が相次ぐ。その時点で、また「戦後」像――「戦後」解釈が異なって来る。

このように考えて来たとき、75年におよぶ「戦後」が、なかなか過ぎ去ろうとしない理由も見えてくる。「戦後」を鏡とすることによって、人びとは〈いま〉の位置をそれぞれに測って来たのだ。年代や性別、立ち位置によってその戦後像は異なるけれど、「戦後」の軸によって〈いま〉を観測する思考が続いてきた。われら「戦後人」の時代であったといえよう。だが、「戦後第二世代」の登場により、さすがに「戦後」の旋風も翳りを見せてきているようである。新型コロナウイルスは、はたして「コロナ後」をもたらすであろうか。

<戦後日本の歩み>

昭和20年(1945)
【太平洋戦争の終結】
8月14日:ポツダム宣言受諾を決定
8月15日:戦争終結の詔書を放送(玉音放送)
【占領統治の始まり】
8月30日:占領統治に当たる連合国軍最高司令官・マッカーサー元帥が厚木飛行場到着
9月2日:米艦ミズーリ号で降伏文書に調印

昭和21年(1946)
1月:天皇の人間宣言。GHQ、公職追放を指令
11月3日: 日本国憲法公布

昭和23年(1948)
11月: 極東国際軍事裁判(東京裁判)終わる

昭和25年(1950)
6月: 朝鮮戦争始まる
8月: 自衛隊の前身となる警察予備隊設置

昭和26年(1951)
サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約に調印(独立回復)

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