甲斐国の英雄・武田信玄が令和3年(2021)11月3日に生誕500年を迎えるが、近年、甲斐国を統一し、甲府を開創した信玄の父・信虎が再評価されている。

そもそも武田氏は日本有数の武門だったが、戦国時代に信虎が家督を継いだ頃は、一族の内訌、国衆の反乱によって衰退していた。あまり知られていない甲斐国の成立から信玄誕生までの歴史を中心に振り返る。

JR甲府駅北口にある「武田信虎公之像」

古代律令制下の甲斐国

「乙巳(いっし)の変」と呼ばれるクーデター、「大化改新」という政治改革を経て誕生した古代日本の律令国家は、全国を「五畿七道」に区分する。五畿は畿内ともいい、大和国、山城国、摂津国、河内国、和泉国の5ヵ国のこと。その他の諸国は東海道、東山道、山陽道、山陰道、北陸道、南海道、西海道の七道に分けて、都から放射線状に延びる同名の官道(幹線道路)で繋いだ。

甲斐国は東海道に属したものの、本道が経由しなかったため、駿河国の横走駅から分岐して八代郡の国府へ至る支道「甲斐路」(「御坂路」とも)が整備される。

『甲斐御坂越』(国立国会図書館デジタルコレクション)

国府には都から国司が派遣され、従来の地方豪族は山梨・巨麻(巨摩)・八代・都留の4つに分けられた郡の郡司となり、班田制によって口分田を支給された公民は「租・庸・調」という税や労役の義務を負った。

平安時代の法令集『延喜式』には、都留郡の特産「甲斐絹」の献上や巨麻郡の官牧から「貢馬」もみえる。

平家打倒に呼応した甲斐源氏

律令制度の経済的基盤だった班田制は、平安中期に有力貴族や大寺院が荘園を形成したことで崩れていく。

甲斐国の荘園は安和2年(969)の市河荘が初見で、やがて石和・塩部などに広大な荘園ができた。

班田制の崩壊と荘園制の発達は、新しい武士階級の台頭を促した。甲斐国における、その筆頭が武田氏だ。

武田氏は常陸国那珂郡武田郷に拠点を構えた新羅三郎義光の子・義清が、その息子の清光とともに市河荘に移され、荘官として土着したのが始まり。この子孫を総称して「甲斐源氏」という。

『本朝百将伝』「源義光」(国立国会図書館デジタルコレクション)

やがて清光は巨麻郡の官牧に進出し、谷戸城を拠点に一族を周辺地に分封させていった。平安末期には清光の子・信義が源頼朝の挙兵に呼応し、富士川の戦いを皮切りに一ノ谷・壇ノ浦などの平家追討に数々の武功を立て、鎌倉幕府成立後は御家人となっている

『前賢故実』「武田信義」(国立国会図書館デジタルコレクション)

甲斐守護·武田氏の衰退と戦国動乱

鎌倉時代の武田氏には不明な点が多いものの、ほぼ一貫して甲斐国の守護の地位を保持し、室町時代には関東管領上杉氏の縁戚となることで、東国で有力な存在となった。

しかし、応永23年(1416)に前関東管領・上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方・足利持氏に対して起こした反乱に武田信満が荷担。やがて鎌倉府の軍勢に追討を受けて信満は自害、その子・信重らは国を捨てて逃亡し、甲斐国は守護不在という事態に陥った(上杉禅秀の乱)。

『結城合戦絵詞』「室町幕府6代将軍・足利義教の討伐を受けて自害した足利持氏」(国立国会図書館デジタルコレクション)

その後、畿内や高野山を流浪した信重は、室町幕府6代将軍・足利義教の庇護のもと守護に復帰したが、享徳3年(1454)に勃発した「享徳の乱」以降、各地で下剋上が相次ぎ、東国はそのまま戦国時代へ突入する。

甲斐国では永享年間(1429~1441)に勢力を拡大した守護代・跡部氏の専横が目立つようになり、ときの守護・武田信昌がやっとの思いで鎮圧したのもつかの間、今度は家中で内訌が起きる。隠居した信昌が家督を嫡男・信縄ではなく、その弟・信恵に譲ろうとしたことで信縄派と信恵派に分裂した。

延徳4年(1492)の『勝山記』には「甲州乱国二成始ル也」とある。そして、この内訌を治めたのが信縄から家督を継いだ信虎だった。

信虎、甲斐統一

その後、17歳で都留郡の小山田氏を従属させた信虎は、永正14年(1517)に巨麻郡の大井氏と和睦し、その娘(大井夫人)を正室に迎えた。

富士急行線「三つ峠駅」付近は、戦国期、小山田氏が領したとされる

2年後には本拠を川田館から躑躅ヶ崎館へ移して甲府の城下町を開創、さらに館の北東約2.5kmの積翠寺に要害山城を築く。

「躑躅ヶ崎館跡(武田氏館跡)」からの城下町の眺め

信虎最大の危機は、巨麻郡の穴山氏と結んだ駿河国の今川氏の大軍が甲斐国へ侵攻したときで、この合戦の最中、大永元年(1521)11月3日に要害山城で信玄(晴信)が生まれた。

翌大永2年、今川軍を退けた信虎は、身延山参詣と富士参詣を敢行する。これは甲斐国と駿河国の国境周辺を支配する小山田氏と穴山氏を従属させたことを国内外に誇示する狙いがあったようだ。

「身延山」山頂にある東側展望台からの眺め

信虎は天文元年(1532)頃までに甲斐国の統一を果たし、余力をもって対外積極策を展開。そして約10年後、度重なる外征と頻発した天災によって民衆が疲弊してしまい、彼は信玄のクーデターによって国外へ追放される。

それから現在に至るまで信玄は名将の名を欲しいままにしてきたが、そもそも彼が戦国大名としてその名を天下に轟かせたのは、甲斐国統一、甲府開創といった信虎の功績があってこそではなかったか。

近年、信玄飛躍の土台を築いた信虎が再評価されている。                    

「躑躅ヶ崎館跡(武田氏館跡)」に建つ武田神社

【参考文献】
・平山優著『武田信玄』(吉川弘文館)
・加来耕三著『「風林火山」武田信玄の謎〈徹底検証〉』(講談社)

文・写真/水谷俊樹(作家・漫画原作者)
1979年、三重県尾鷲市生まれ。現在は執筆活動のほか、歴史ジャンルを中心にマンガの企画や監修を手掛ける一方、東京コミュニケーションアート専門学校で講師を務める。主な著作に『CD付「朗読少女」とあらすじで読む日本史』(中経出版)、監修を担当する作品に『ビッグコミックスペリオール』で連載中の『太陽と月の鋼』(小学館)などがある。

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