明治維新で「江戸」が「東京」と改称され、150年という月日が経つが、当時東京は劇的な変貌を遂げることになった。世界有数の人口を誇った江戸。だが近代国家の顔になるには、基盤があまりにも脆弱であった。

ある意味で近代化という名の下、古き良きものは捨てさられ、西洋化への道を邁進した時代でもあった。今振り返るとそこに何が見えてくるのだろうか。

新政府の方針として最初に
大坂遷都が議題に上る

嘉永6年(1853)6月3日、百万都市・江戸の海の表玄関ともいえる浦賀沖に、巨大な黒い船が姿を現した。それはマシュー・ペリー提督が率いる、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊所属の4隻の軍艦であった。

いわゆる「黒船来航」という外圧により日本はその後、大きく姿を変えることになる。それはペリーが来航してからわずか15年で、徳川幕府が姿を消してしまったことだ。

そこに至る過程において、徳川幕府方の軍勢と薩摩と長州を中核とする討幕軍による戦闘が勃発。当然、幕府の中枢が置かれていた江戸が戦場と化すことで、灰燼に帰してしまう危機に瀕していた。

実は慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府側では、遷都の議題が持ち上がっていた。新政府の参与を務めていた大久保利通が、政府の最高官職であり政務を統括していた有栖川宮熾仁親王に、大坂遷都を建言したのだ。

大久保の主張は「天皇は西欧諸国の君主のように、国中を視察し、民を大切に育て、広く民に敬愛される君主となられることが重要。そのためには遷都が必要であり、遷都の地としては外交、富国強兵、軍備増強等において地形的に浪華、つまり大坂が適当」というものであった。

大久保利通(国立国会図書館蔵)

そして慶応4年3月21日、明治天皇は大坂行幸に出発。3月23日に大坂に到着した天皇は、西本願寺掛所(北御堂)を行在所として1カ月半におよぶ親政を行った。それにより大坂市内の治安が回復する。

だがこの時点では、江戸はまだ戦場となるかどうかも定かではなかった。しかし結果は幕臣の勝海舟や山岡鉄舟、薩摩の西郷隆盛らの尽力により、最悪のシナリオは回避されることになる。同年4月11日に江戸城は無血開城。その後、城明け渡しの事務手続きが、現在の丸の内にあった南北両町奉行所で行われた。

いずれにしても、大久保の大坂遷都発言は、新たな時代の到来を導くこととなった。それまでは宮廷という世界にとどまっていた天皇を、外の世界へ連れ出したのである。そしてこの時代、天皇が足を運んだ地は、それだけで秩序が保たれる、という効果も発揮された。

江戸こそが新生日本の
中心という建白書が出される

江戸城が無血開城された後、5月15日には旧幕府を支持して上野の山に立て籠っていた彰義隊との戦いも終結する。こうして江戸の町は、灰燼に帰す危機から脱した。とはいえ荒廃した江戸へ遷都するという考えを、多くの新政府高官は持っていなかった。その中で唯ひとり、江戸に目を向けた人物がいた。後に郵便制度を創設することになる前島密だ。

前島密(国立国会図書館蔵)

前島が江戸遷都論を展開することになったのは、大久保の大坂遷都論に触発されたものであった。実際、前島は大久保の遷都論を読んで「感服した」としながらも、遷都する地は大坂ではなく江戸がふさわしいと説いているのだ。その建白書に記されていた江戸を推す主な理由は、

・蝦夷地(北海道)の開発が急務であり、それには江戸が重要な拠点だ。
・地勢的に見て、蝦夷地まで含めれば江戸が日本の中心に当たる。
・大坂は市街の規模が狭く、人口が密集し過ぎている。江戸は空家となった広大な武家地が利用できる。
・大坂は商業都市として発展しているが、幕府なき後の江戸は何もしなければ廃れてしまう恐れがある。
・江戸ならば諸外国から来る巨大船を停泊させる港の建設が容易。というものであった。

この建白書が決め手になったわけではないと思われるが、慶応4年7月17日になると突然、「天皇東幸」の詔書が出された。この詔書により、江戸に天皇が直接赴かれ、政治を指導されるべき「東国第一の大鎮」として位置づけられた。さらに「江戸を東京と称す」との詔書も発せられ、江戸府に代わり東京府を設置。

東京府設置に関して、詔書の副書では、その趣旨を「幕府が開かれて以来、江戸は繁栄し財貨が集まった。だが幕府消滅により生計を立てることに苦しむ者が多い。今は全国の力を平均して強めなければならないので、東京府民は自らの職業に精励し、産業を盛んにしていくように努めなければならない」と述べている。しかし、正式な詔書として東京遷都が発せられたわけではなかった。

明治17年「東京市区改正ノ件」(国立公文書館蔵)

火災都市・江戸をどのように
改造するのか?

慶応4年9月8日(1868年10月23日)、元号が慶応から明治に改められた。そして9月20日に京都を発した明治天皇は、10月13日に江戸城に入城。これを東京城と改称。天皇はその後、一旦京都へ戻る。だが翌明治2年(1869)3月28日には京都を後にして東京城に入城。以後、京都に帰ることはなかった。火災に強い都市を目指し耐火建築が奨励された

明治天皇は東京城に移ったが、京都の人たちからの反発を考慮して正式な詔書が出されないまま、事実上の東京遷都となった。以来、日本の首都を単に東京とした「東京奠都」という言葉が使われるようになる。

こうして日本の顔となった東京だが、江戸の頃から抱えていた都市問題をそのまま引き継ぐこととなってしまった。その根本は広大な武家地や寺社地に比べ、一般庶民が暮らしていた町人地は建物が著しく密集していたことだ。しかも東京の家屋は約97%が木造家屋であった。

「安政二年江戸大地震火事場の図」国立国会図書館蔵

そんな中、明治5年(1872)2月26日、銀座の和田倉門兵部省添屋敷が出火。折からの強風にあおられ丸の内、銀座、築地一帯が焼失する大火となった。41カ町、4879戸が焼失、その面積は28万8千坪にも及んだ。

それまでは火除地を作り、鎮火神社を祭るという江戸以来の方法を採っていたが、銀座の大火を契機にして焼失地区を中心に、火災に弱い伝統的な建築物が禁止され、耐火建築が奨励された。

時の東京府知事由利公正が主導し、大蔵省雇トーマス・ウォートルスの設計により、都市計画が策定されたのである。その計画は、火災を防ぎ延焼を阻止する方法として、街区を整理し道幅を広くすること、不燃建築により市街を建設することなどが主なものであった。

この計画に従い火災で焼失した銀座一帯には、煉瓦街の建設が進められることとなった。明治5年に着工、明治10年(1877)に完成。また、銀座と旧木挽町以東の地域では、区画整理が行われるとともに、大通りを幅15間(約27m)とするなど道路拡張や歩道の設置が行われた。

以後も東京では様々な防火対策が計画・実践された。明治14年(1881)には日本橋、京橋、神田の主要街路および運河沿い家屋への煉瓦、石、蔵造による路線防火を定めている。

またその他の地域へは、瓦葺屋上制限について定めた東京防火令を発布。さらに水路を新設し、民有地を買い上げて道路を拡張するなどして、市街火災防禦線を設置して、路線防火制の確立を目指した。これにより、明治20年(1887)以降は大火の発生が格段に減った。

しかし大正12年(1923)に発生した関東大震災で、蔵造の家屋のほとんどが倒壊してしまうのであった。交通インフラの整備も近代国家建設の要となる

交通革命とインフラ整備が
東京の景観を変えた

このように、道路の拡張は火災に強い都市を形成するために不可欠であった。それとともに馬車などの、新たな交通手段にも対応した。そして明治3年(1870)3月には、東京と横浜の間に日本初の鉄道を敷設するための測量が開始される。

「第一大区従京橋新橋迄煉瓦石造商家蕃昌貴賎藪沢盛景(部分)」(国立国会図書館蔵)

その後、用地の取得に手間取ったが、明治5年(1872)2月、横浜~品川間の線路敷設が完了。同年5月7日から仮営業が開始され、1日2往復の旅客列車が運行されたのである。さらに遅れていた品川~新橋間の工事が完了した同年9月12日、明治天皇臨席のもと、新橋と横浜の両停車場で鉄道開業式を開催。明治天皇はお召し列車に乗り、両停車場間を往復している。

鉄道敷設の背景には、開港場として繁栄していた横浜居留地と、明治になって置かれた築地居留地を結ぶための意図があった。鉄道敷設は英国人のエドモンド・モレルやジョン・ダイアックの尽力により実現。

また新橋と横浜の停車場はアメリカ人建築技師のリチャード・ブリジェンスが設計した。彼は日本人の大工や職人にその技術を伝授。鉄道を敷設したことは、その後の東京の姿を大きく変えていくひとつの起爆剤となったのであった。

「東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図」(国立国会図書館蔵)

文/野田伊豆守

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