伝統の技を今に伝える南部杜氏。西條では古くから彼らが酒を醸している。

町の景観すら醸し出す河内唯一の造り酒屋

暖冬といわれているが、冬の朝の8時前はさすがに底冷えする。大阪府内でも河内長野市まで足を運ぶと、周囲に広がる風景はビルや大通りに囲まれた道頓堀あたりとはまるで違い、町のすぐ近くにまで樹木に覆われた山が迫っている。それだけ自然の影響を色濃く受けるのだろう。

平安の御代から、高野山に参拝する人々の往来が絶えることがなかったという高野街道。由緒ある道に面した一画に、目指す酒蔵「西條」はあった。その場所は意外なことに、南海高野線の河内長野駅から徒歩5分ほどしか離れていない。自然が豊かな河内長野でも、さすがに周囲はマンションや住宅ばかり。

河内長野市内唯一の酒蔵西條は、高野街道を挟んで北側に現在操業中の蔵と事務所がある。この建物も十分に歴史が感じられるが、南側にある古い蔵と店舗は、国の登録文化財に指定されているほど。

左が旧店舗。右は現店舗で、蔵は奥にある。間を通る高野街道は昔の佇まいが味わえる。

旧店舗の母屋は桟瓦葺きの2階建てで、間口が11間(約20m)もある大きな建物だ。入口を挟み東側に荒格子、西側の一部はショーウインドーとなっている。入口から中に入ると土間があり、一時期は銀行として使われていたそうだ。

この建物が建てられたのは、明治14年(1881)に作られた古図や虫籠窓の形状、2階の天井の高さなどから見て、幕末から明治初期と考えられている。旧街道の佇まいと歴史の重みを感じさせる建物が、落ち着いた雰囲気を醸し出しているのだろう。

金剛寺の僧坊酒の流れを汲んだ酒蔵として創醸する

この地で酒造りが栄えたのは、天野山金剛寺の存在を抜きにしては語れない。麹による酒(日本酒とは明治以降、様々な洋酒が入ってきたので区別するための名称)造りが根付いたのは奈良時代のこと。以来、朝廷が酒造りを行っていた。

平安時代になると、その高度な技術は僧侶の手に委ねられる。寺で造られた酒は「僧坊酒」と呼ばれ、神様に捧げるほか、ごく限られた高貴な人たちだけが口にすることができた。

やがて室町時代になると、酒造りの技術が飛躍的に発達。京都を中心に造り酒屋が増えていく。同時に需要も伸びたのは、より多くの人々が飲めるようになった証しといえる。

西條蔵の名声を一気に高めた伝統の純米酒。

京都の酒造業が発展するのと同時に、奈良の「菩提泉」や「大和多武峯酒」、河内の「観心寺酒」、越前の「豊原酒」、近江の「百済寺酒」といった全国の僧坊酒も名声を高めていく。

河内長野にある名刹、天野山金剛寺で造られていた僧坊酒も、第一級の酒として文献に登場。後花園天皇の実父である伏見宮貞成の日記『看聞御記』や酒造技術を記した『御酒之日記』では「天野酒」と紹介されたのである。

この時代、濁った酒が大部分を占めていたが、天野酒は木炭を加えることなく清澄するという、現代も用いられている手法を採用。その味わいは“比類なし”と絶賛されるほどのものであった。

それは室町後期から戦国時代になっても変わらずに続いた。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった英傑たちの口も愉しませている。なかでも太閤秀吉はことのほか天野酒を愛飲し、良い酒を醸造することに専念するよう命じた朱印状も金剛寺に残されている。

最近の人気は吟醸造り。

江戸時代に入ると天野酒の流れをくんだ酒蔵が、金剛寺のお膝元である河内長野の地にいくつか誕生する。享保3年(1718)に創業した西條蔵もそのひとつだ。享保年間というのは八代将軍・徳川吉宗の時代。以来今日に至るまで、河内長野の地で酒造りを営んできた。

明治末までは「三木正宗」、大正から昭和にかけては「波之鶴」の銘柄であったが昭和46年(1971)、天野山金剛寺の好意と地元の応援に応え、途絶えて久しかった「天野酒」の銘柄を継承している。

南部杜氏の技が冴える酒は変わらないことが新しい

午前8時になると、蔵は俄然活気を帯びてきた。この時期、酒造りのためにやってきた南部杜氏たちが、蔵の中をせわしく動き回っている。間もなく酒米が蒸し上がるのだ。甑からもうもうと蒸気が立ち上り、一瞬あたりが見えなくなる。米の蒸し状態を確認するため、真剣な表情でひねり餅を作る杜氏。

蔵全体に緊張が走る。それから蒸し上がった米を素早く麹米と掛米に分け、使用目的に応じた温度まで冷まさなければならない。まさに蔵内が戦場と化す瞬間なのである。

酒米が蒸し上がると、酒蔵は一瞬にして戦場のように慌ただしくなる。

「蒸米の運搬は重労働ですが、地元ベテラン作業員の方たちが大いに活躍してくれています。何年も続けてきてくれている人など、杜氏が指示を出さなくても次に何をすべきか理解しているので自ら動いてくれます」

と、第十代蔵主の西條陽三さん。現在は酒造りに直接携わっているのは南部杜氏4名と地元の作業員が4名。その言葉通り、全員が黙々と仕事をこなしていく。蒸し上がった1トンほどの米は、みるみるうちに次の工程へと捌かれてゆく。

杜氏歴40年という多田貴美男さんは、天野酒らしい美酒を造るコツを「何も特別なことはしない。基本にのっとったオーソドックスな造り方を続けるだけ」と語る。

画一化や機械化が主流となっている業界にあって、できうる限り伝統的な手法を守ってできた酒の味は“昔からあるのに新しい”味なのである。ろ過したばかりの酒をいただいた。口中から鼻に抜ける芳醇な味わいは、まさに“甘露”と呼ぶにふさわしいものだ。

しっかりと旨味を伝える醇酒(じゅんしゅ)だ。

なかでも山田錦を自家精米し、南部杜氏の伝統に培われた技で醸し上げた純米づくりの酒は、華やかな香りに満ちていてコクが深く、後味もすっきりとしており、知る人ぞ知る地酒として高い評価を得ている。

復刻された幻の僧坊酒濃厚な味わいに浪漫あり

文献をもとに当時の製法で再現した「天野酒 僧房酒」。

太閤秀吉がこよなく愛した酒とはどんなものなのか。酒好きでなくても気になるところだろう。江戸時代に入り、寺院での酒造りが廃れてしまうと、この酒も姿を消してしまった。だが室町時代に記された文献をもとに平成4年(1992)、当時の製法そのままで復活させた。その名も「天野酒 僧房酒」だ。

きれいな琥珀色の酒を口に含むと、少しとろみがあるように感じる。そして次の瞬間、上質なメイプルシロップや蜂蜜を彷彿とさせる味が口中に広がった。現代の日本酒とは一線を画す、超濃厚で豊かな甘みと旨味を楽しむ酒だと感じた。

西條は市内産の古代米を使用した酒も開発。酒造りの過程で生じた酒粕や米粉を利用した焼きねぎ味噌やバウムクーヘン作りも手がける。今も進化を続ける老舗酒蔵である。

※2016年取材

文/野田伊豆守 写真/木下清隆

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