13123【越前・若狭】明智光秀とその時代~福井県の戦国史跡巡り~

【越前・若狭】明智光秀とその時代~福井県の戦国史跡巡り~

男の隠れ家編集部
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群雄が割拠する戦国時代の荒波を駆け抜けた明智光秀。この謎の多き戦国武将は、足跡を福井県に多く残した。光秀ゆかりの史跡を訪ねて往時に思いを馳せた。
目次

※本項で扱う明智光秀の来歴には諸説あります。

数少ない資料を頼りに光秀の足跡をたどる

戦国時代と明智光秀

暗闇の中から唐門が浮かび上がる。時代を超え、何者かの訪れを待ちわびているかのようだ。ここはかつて、戦国大名の朝倉氏が拠点とした越前(福井県)一乗谷。明智光秀も当地を訪れ、その栄華に目を奪われたことだろう。

光秀は謎に包まれた武将だ。光秀没後に成立した『明智軍記』には、享禄元年(1528)に美濃(岐阜県)に生まれたとあるが、誰の子であったかなど詳しいことはわかっていない。故郷の美濃を追われ、織田信長に見いだされるまでの動きも不透明な部分が多い。しかし、様々な資料をつなぎ合わせていくと、光秀の前半生は越前・若狭(福井県)と深い関わりがあったことがうかがえる。

智光秀肖像模写(東京大学史料編纂所所蔵)

故郷を落ち延び越前へ。再興を期した雌伏の地

時宗寺院で情報を収集し天下の情勢を見極める

新田義貞の菩提寺で明智光秀は何を考えていたのか。称念寺は越前を代表する時宗寺院である。斎藤義龍によって美濃を追われた光秀は、越前へと落ち延び、その門前で10年間、寺子屋を開いていたといわれている。

光秀がこの地を選んだのには理由があった。当時、称念寺は念仏道場として、政治権力や武力の及ばない聖域であった。浪人となった光秀が身の安全を確保するにはもってこいの場所だったのだ。

光秀と称念寺のゆかりを語る高尾察誠(さつじょう)住職。

称念寺はまた、日本海交易を取り仕切る海運商社として各地にネットワークを構築しており、流通する物品のみならず各地の最新情報をたやすく入手できた。もとより時宗は遊行僧が全国を布教して歩く宗派でもあり、彼らの見聞も重要な情報源となった。光秀はここで天下の情勢を判断したといっても過言ではないだろう。

念寺にあった愛宕権現曼荼羅(まんだら)。本能寺攻めに際して光秀は京都・愛宕権現に祈りを捧げている。

光秀が連歌や茶道に明るかったことも有名だが、当時の時宗は室町文化を支えた同朋衆が多く、様々な教養を習得することもできた。光秀は後に室町将軍・足利義昭の幕臣となり、織田信長にも仕えることになるが、称念寺での経験は少なからず役立ったはずだ。

興味深いのは、称念寺が新田義貞の菩提寺でもあること。南北朝時代、南朝方に属して全国を転戦し、越前で再起を期した忠孝の武士を、自らの境遇に重ね合わせる光秀を思わずにいられない。

称念寺に安置されている新田義貞の木像。光秀が称念寺に来ていたとしたら必ずや向き合ったはずである。

称念寺

『奥の細道』で松尾芭蕉(ばしょう)が光秀夫妻について詠んだ「月さびよ明智が妻の咄(はなし)せむ」の句碑。

称念寺(しょうねんじ)
福井県坂井市丸岡町長崎19-17
☎0776-66-3675

越前和紙の里

越前和紙の起源をたどると当地に紙すきの技を伝えた紙の神様「川上御前」の伝承に行き着く。日本で唯一、川上御前を祀る岡太(おかもと)神社大瀧(おおたき)神社下宮。「日本一複雑な屋根」をもつ社殿建築も必見だ。

『明智軍記』には、光秀が信長に仕える際に越前和紙を献上したという記録が残る。当時の手漉きの技法が伝えられている。

越前和紙の里(えちぜんわしのさと)
福井県越前市新在家町8-44
☎0778-42-1363

グランディア芳泉

福井県内屈指の温泉地、あわら温泉。そのなかでも露天風呂付き客室で上質なひとときを演出してくれる宿がグランディア芳泉。自家源泉の湯で旅の疲れを癒やし、食材の宝庫である越前の旬の幸を堪能したい。

戦国時代を偲ばせる丸岡城が称念寺の北西約2kmにある。織田信長の命を受け、柴田勝家の甥に当たる勝豊が築いた。

グランディア芳泉(ぐらんでぃあほうせん)
福井県あわら市舟津43-26
☎0776-77-2555
1泊2食付き30,800円~(ゆとろぎ亭)、40,700円〜(個止吹気亭)
※1室2名利用時の1名料金

近江から若狭、そして戦陣へ。光秀ゆかりの国境の要衝

信長・家康も滞在した重要な越前攻略ルート

明智光秀の足跡を求めて越前を北陸道に沿って南下した。木ノ芽峠を越えて若狭へと向かった。若狭・小浜から近江を抜けて京都に至る若狭街道は「京は遠ても十八里」といわれるほど、主要街道として盛んな往来があった。

若狭街道の宿場町として栄えたのが熊川だ。熊川は室町時代から足利将軍直属の沼田氏が山城を構えるなど、戦略上の要衝でもあった。あまり知られていないが、沼田城主・沼田光兼の娘、麝香は光秀の盟友である細川藤孝(幽斎)の妻であり、その間に生まれた細川忠興は光秀の娘・玉(ガラシャ)を娶っている。熊川と光秀は浅からぬ縁で結ばれている。

時代を超えて今も残る古い街並みに時を忘れる

熊川宿の町並み。重要伝統的建造物群保存地区に選定され、江戸時代の面影を今に伝えている。

戦国時代、熊川は織田・徳川軍の越前攻略のルート上にあった。元亀元年(1570)4月、朝倉攻めに際し、織田信長に重用されていた光秀は熊川に着陣した。信長自身が当地に到着して越前に向かう2日前のことだ。足利の近臣である細川藤孝ら3人に向けて書状を発し、越前口や近江北部の情勢を伝えている。

その後も熊川は交通・軍事の要衝として発展する。豊臣秀吉に重用された当時の小浜城主・浅野長吉(長政)は天正17年(1589)、諸役免除の布告を発している。江戸時代に入ってからも近江国境に接する宿場町として賑わった。若狭街道は大量の海産物が京都に運ばれたことから、今では「鯖街道」とも呼ばれるようになった。塩漬けの鯖は京都に到着する頃にはちょうどよい塩加減になったとか。

熊川城跡を案内してくれた(左から)若狭熊川宿まちづくり特別委員会の宮本会長と松見広報部長、若狭町観光未来創造課の塚本さん。

峠の往来を見守り続ける茅葺き屋根の家

光秀も木ノ芽峠を越えて行ったに違いにない。古い茅葺き屋根の家は代々この地で茶屋番兼関所役を務めてきた前川家だ。

金崎宮

金ヶ崎城は「金ヶ崎の退き口(退却戦)」で知られる。織田信長の妹・お市の方が両端をくくった小豆袋を送り、浅井長政の裏切りを知らせたといわれ、明智光秀らが殿を務めたとされる。その麓に金崎宮は建つ。

金崎宮では小豆袋型の難関突破のお守り(1000円)を授与している。握り締めやすい形をした小豆入りで開運を願う珍しいお守りだ。
難関突破のお守り(1000円)

金崎宮(かねがさきぐう)
福井県敦賀市金ケ崎町1-4
☎0770-22-0938

朝倉氏五代の戦国城下町 一乗谷の栄華と滅亡

唐門が迎え入れる今は主なき館の跡

一乗谷朝倉氏遺跡のシンボルである唐門。朝倉五代目・義景の菩提を弔う山門として江戸時代に建てられたと推定されている。春は門の脇のエドヒガンザクラが美しい。夜間はライトアップされている。

朝倉氏という組織の中で才覚を認められた光秀

唐門をくぐると、そこはわびしく礎石だけが残る館跡だった。館の主は戦国大名・朝倉義景。約1万5000㎡の敷地は三方を土塁と濠で囲み、御殿や蔵などが整然と建ち並んでいたことがわかる。山際に配置された庭園は、洗練された石組みに京都との文化の交流が感じられる見事なものだ。

ここは一乗谷。五代103年間にわたって朝倉氏が拠点とした城塞都市である。栄華を極めた当地は「北の京」とも呼ばれ、最盛期には約1万人が暮らしていたともいわれている。永禄10年(1567)、後の将軍・足利義昭が義景を頼って一乗谷に身を寄せた。既に義昭の幕臣となっていた光秀も、その繁栄を目の当たりにしたことだろう。

JR越美北線の列車が一乗谷駅に到着した。一乗谷朝倉氏遺跡および一乗谷朝倉氏遺跡資料館の最寄り駅だが、1~2時間に1本程度の運行なので旅程を組む際はご注意を。

これまで朝倉氏と光秀の直接的なつながりを示す史料は確認されていなかった。しかし近年、光秀はその医学知識を買われ、朝倉氏と関わりをもっていたことが明らかになってきた。当時の一乗谷は医学書の出版が行われるほどの高い医学水準を達成していた。そこで光秀は朝倉氏の家臣に医学を伝授していた可能性があるのだ。朝倉氏の根拠地、一乗谷で活躍する光秀の姿が浮かび上がってくる。将軍家の幕臣として義景となんらかの関わりをもっていたとしても、不思議ではないだろう。

戦国時代といううねりの中で、光秀は次第に頭角を現していった。やがて織田信長に見いだされ一乗谷を去るが、越前での経験は彼の人生に大きな影響を与えた。

商人などが住んだ町家群を歩く。
日本でも第一級の豪華さを誇る諏訪館跡庭園(特別名勝)。
称念寺の年貢納入について朝倉義景が口添えした古文書が残る。光秀が身を寄せた称念寺と義景は無関係ではなかったのだ。

一乗谷に近い東大味(ひがしおおみ)という集落に明智神社がある。信長の命による一向一揆討伐の際、光秀がかつて住んだ当地を戦禍から守ったと伝えられ、今でも「あけっつぁま」として慕われている。

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(ふくいけんりついちじょうだにあさくらしいせきしりょうかん)
福井県福井市安波賀町4-10
☎0776-41-2301
開館時間/9時~17時(入館16時30分まで)
入館料(常設展示)/一般100円 高校生以下・70歳以上無料
※企画展開催期間中は別料金
休館/年末年始ほか(ホームページ参照)

文◎仲武一朗 写真◎遠藤 純

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