31084「明智光秀の足跡を辿る」福井・嶺南歴史紀行|大河ドラマ『麒麟が来る』

「明智光秀の足跡を辿る」福井・嶺南歴史紀行|大河ドラマ『麒麟が来る』

男の隠れ家編集部
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福井県嶺南地方へ、戦国武将・明智光秀の足跡を辿る旅に出た。戦国時代から江戸時代、さらに明治黎明期、そして現代へ……。嶺南地方が歴史の中で果たしてきた大きな役割にも触れることができた。
目次

明智光秀が躍動した戦いの舞台を訪ねる

敦賀(つるが)湾に突き出た岬の小高い丘に社がある。この丘にはかつて城があり、京と越前を結ぶ要衝の町、敦賀を見下ろしていた。現在は「金ヶ崎(かねがさき)の退き口」として知られる戦いの舞台となった金ヶ崎城址、金崎宮(かねがさきぐう)がある。

その時の戦国武将・明智光秀の活躍が語り継がれている。

金崎宮は出会いを取り持つ「恋の宮」。恋みくじで恋愛を成就したい。
後醍醐天皇の皇子、尊良(たかよし)親王を祭神として明治26年(1893)に創建された金崎宮。

元亀元年(1570)4月、越前朝倉氏を攻めるため京を発した織田信長の軍勢は、わずか2日間で金ヶ崎城を降伏開城へと追い込み、勢いに任せて朝倉氏の根拠である一乗谷(いちじょうだに)を目指そうとした。その矢先、北近江の浅井長政が背後を襲う動きを見せたため、撤退を余儀なくされる。信長は近臣のみを従え若狭国を駆け、近江国の朽木谷を抜けて帰京した。

光秀はその殿(しんがり)を務め、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らと共に撤退戦を繰り広げたと伝えられる。

わずかに残る石垣に往時を偲ぶ
難攻不落を誇った若狭の名城

金ヶ崎城址に残る深い堀切は、敵の侵入を食い止める役割を果たしていた。実戦的な山城であったことが分かる。
金崎宮の鳥居の向こうに敦賀の街並みが広がる。麓までは長い石段が続く。
境内にひっそりと建てられていた金ヶ崎城址の碑。
現在は眺めのいい散策路が整備されている。

織田信長も注目した越前朝倉氏攻めの拠点

若狭国の東端、眼下に丹後街道(現在の国道27号線に相当)を見下ろす山城が、越前国との国境を固めていた。明智光秀もきっとこの景色を眺めたに違いない。

弘治2年(1556)、若狭国守護大名武田氏の家臣である粟屋勝久(あわやかつひさ)によって築かれた国吉城は、永禄6年(1563)、押し寄せる越前朝倉氏の軍勢を撃退し続け、数年にわたって壮絶な籠城戦を展開した。これにより難攻不落の山城としての名声を高めた。

国吉城からは街並みを一望できる。江戸時代には宿場町として栄え、奉行所も置かれた。
国吉城の城下町である佐柿(さがき)には、街道に沿って昔ながらの風情を感じさせる町家が軒を連ねる。

織田信長は、元亀元年(1570)の朝倉氏攻めにおいて、木下藤吉郎や徳川家康と共に国吉城へ入城し、金ヶ崎城の攻略拠点とした。これに先立ち一行を若狭・熊川で出迎えた光秀も、信長に随行し入城したと考えるのが自然だ。天下の三英傑と光秀が国吉城で一堂に会したことになる。

軍記『国吉籠城記』によれば、信長は国吉城に3日間逗留し、軍議を重ねたという。余談ながら、その際、長年朝倉勢を相手に戦った粟屋勝久の武勲を大いに称賛したとも伝えられる。勝久は後に国吉城を安堵され、織田方の武将(若狭衆)として各地を転戦した。

越前朝倉氏を撃退し続けた国吉城は、今年が織田信長入城450年に当たる。近年の発掘調査によりその存在意義が見直されつつある。

戦国の世が終わり、国吉城は廃城となった。遺構には雑木が茂り土砂に埋もれるばかりであったが、近年発掘調査が進むにつれ、その全貌が明らかになりつつある。曲輪の石垣や土塁、堀切などから往時に思いを馳せることができる。また、城下町として発展した佐柿は、街道の宿場町としての情趣が今も色濃く残る。思わず時の流れを忘れる街並みだ。

高い土塁を築いて敵の侵入を阻んだ。
打ち捨てられた墓石は石垣の一部であり、敵に投げつける武器でもあった。
本丸への急峻なつづら折れを登る。
発掘調査により平時暮らした居館跡などが見つかっている。
国吉城は守るに易く攻めるに難い堅城。迫り来る越前朝倉氏を撃退し続けた。国吉城址内に残る石垣などで当時を偲ぶことができる。

若狭国吉城歴史資料館

国吉城周辺の地形を解説してくれた若狭国吉城歴史資料館の大野康弘館長。
織田信長が入城したときの様子が細かく記されている。
若狭国吉城歴史資料館は江戸時代後期に建てられた旧家を活用している。
当地に伝わる軍記『国吉籠城記』。
大野館長に話を聞く。この座敷は佐柿町奉行所から移築したものと伝えられる。
国吉城の歴史が学べる若狭国吉城歴史資料館には、城主・粟屋勝久が朝倉氏から戦利品として得た品々も展示されている。

福井県三方郡美浜町佐柿25-2 
☎︎0770-32-0050
開館時間/9:00~17:00(4~11月)、10:00~16:30(12~3月)※入館は閉館の30分前まで
入館料/大人100円 中学生以下50円、就学前の幼児無料
休館/月曜(祝日の場合は翌日)、祝日翌日、12月29日~1月3日
※臨時休館有

天然の良港を擁し国際港湾都市として発展

敦賀港に夜の帳が下りようとしている。金ヶ崎緑地には、港町・敦賀特有のレトロでロマンチックなムードが漂う。

心地良い海風に誘われて、金ヶ崎城下の敦賀を訪ねた。越前国の西の玄関口に当たる交通の要衝だけに、戦国時代を生きた明智光秀も幾度となく訪れたに違いない。

敦賀は天然の良港を擁し、有史以来朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んで、渤海国(中国東北部にかつて存在した王朝)の使節を迎える施設「松原客館」が置かれるなど、海上交通の拠点でもあった。

明治32年(1899)に開港指定されると、ロシア・朝鮮・中国といった対岸諸国と定期航路が就航し、日本海側の国際港湾都市として発展した。明治から昭和初期には欧州との往来も盛んになり、ロシア革命で家族を失ったポーランド孤児や、「命のビザ」を携えたユダヤ難民を受け入れた日本で唯一の港になるなど、歴史の舞台ともなっている。現在も敦賀港には外国コンテナ船や高速フェリーが寄港し、人や物の往来が盛んだ。

敦賀港の往来を見渡せる金ヶ崎緑地。
金ヶ崎緑地内には旧敦賀港駅舎が再現されている。
敦賀港の東側に2棟並んで建つ赤レンガ倉庫。現在は観光施設として営業を行っている。

陸路では、古代の一時期ではあるが、不破関(岐阜)、鈴鹿関(三重)と並ぶ三関のひとつ、愛発関が設けられていた。中世から近世にかけては都と北国を結ぶ物資の中継地として栄えた。

近代に入って日本海側で鉄道が最初に開通したのも敦賀である。そして、令和5年(2023)には待望の北陸新幹線が敦賀駅まで伸延される。道路網の整備も着々と進み、平成26年(2014)には、敦賀〜小浜間を結ぶ若狭舞鶴自動車道が開通している。

歴史が時を超えて現代に溶け込む、レトロモダンな香りが敦賀の魅力といえるだろう。

敦賀・西福寺(さいふくじ)は14世紀に開山した浄土宗の名刹。寺内の阿弥陀堂は文禄2年(1593)に越前一乗谷から移築したと伝えられる。朝倉氏とゆかりの深い明智光秀もこの堂宇を眺めたかもしれない。
西福寺の書院庭園は国の名勝として指定されている。特に紅葉の季節は別世界の美しさだ。
阿弥陀堂内部。当初は単層だったが、後に重層の仏堂に改築された。

有史以来、交通の要衝として
発展した敦賀の歴史と文化

『おくのほそ道』で敦賀を訪れた松尾芭蕉は、氣比(けひ)神宮に参拝し、月明かりに照らされた神前の白砂に感動し「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んだ。同神宮には松尾芭蕉像が建つ。
氣比神宮は越前国の一宮。楽しみにしていた中秋の名月をあいにくの雨で観賞できなかった芭蕉は「名月や北国日和定めなき」と詠んだ。
気比の松原は、三保の松原・虹の松原と並ぶ日本三大松原のひとつ。

敦賀ヨーロッパ軒・本店

福井県のご当地グルメといえばソースカツ丼。カラッと揚げたトンカツを、各種香辛料を加えた秘伝のソースにくぐらせ、ご飯にのせてガッツリいただく。丼ぶりからはみ出しそうなボリュームが圧巻だ。

右/揚げたてのトンカツをソースにくぐらせるのが福井流。肉汁とソースがジュワッと口の中に広がる。左/敦賀ヨーロッパ軒は昭和14年の創業以来、伝統の味を守っている。

福井県敦賀市相生町2-7 ☎0770-22-1468
営業時間/11:00〜14:00、16:30~20:00
定休/月曜、火曜 ※臨時休業有

港町の穏やかな人々の心にも触れる

大ぶりの鯖を一尾まるごと焼き上げて豪快にかぶりつく。脂の乗った焼きたての鯖の旨さときたら、それはもう格別。明智光秀もこの鯖の味を堪能したものか。

律令国家の時代、若狭国は塩や海産物といった豊富な食材を京に運び、都人の食文化を支える御食国(みけつくに)のひとつであった。

その往来の拠点となったのが小浜だ。大陸からつながる海の道と、京へとつながる陸の道の結節点でもあり、さまざまな物資や人が往来する港湾都市でもあった。

小浜市鯖街道ミュージアム

鯖街道の起点とされた小浜市中心部に2020年オープンした鯖街道のテーマ館。日本遺産に認定されている「鯖街道」をはじめとする文化財や伝統芸能、祭礼などを紹介する。

福井県小浜市小浜広峰17番地の1
開館時間/9:00〜17:00
休館/火曜、12月29日〜1月3日 観覧料/無料

近年、鯖街道と呼ばれる若狭地方と京都をつなぐルートは、食材はもちろん、文化をも運ぶ交流の道だった。朝廷や貴族との結びつきから始まった都との交流によってもたらされた祭礼、芸能、仏教文化が、街道沿いから農漁村に伝播し、独自の発展を遂げた。

鯖街道という通称は、近世初頭の小浜藩主・京極高次(きょうごくたかつぐ)によって整備された小浜市場の記録『市場仲買文書』に残る「生鯖塩して担い京に行き仕る」という一文に由来するといわれる。「一塩(ひとしお)」された若狭国の海産物は、京に運ばれ「若狭もの」「若狭一汐(わかさひとしお)」として珍重されて今に至る。

鯖街道を辿れば、古代から1500年続く歴史と、伝統を守り伝える人々の営みを肌で感じることができる。恵み豊かな海に育まれた滋味あふれる食文化、そして穏やかな人々の心にも触れることができるはずである。

古墳時代後期~奈良時代、ここで生産された塩は奈良の都へ税(調塩)として納められた。鯖街道と呼ばれるはるか以前から、中央とのつながりは深かったのだ。
小浜市街地から国道27号線を西へ約10km。小浜湾奥の入り江に岡津製塩遺跡がある。

海の幸に恵まれた食文化
鯖街道の起点、若狭・小浜

朽木屋

右/朽木屋のご主人、益田隆さんが日々焼きたての鯖を提供している。脂ののった焼き鯖(1200円〜)は大人気。左/朽木屋は創業260年を誇る焼き鯖、鯖へしこの老舗だ。
朽木屋の店頭で販売されている焼き鯖。意外にも後味はすっきりしているので1尾ぺろりと食べられてしまう。

若狭地方の伝統食が鯖へしこ。へしことは青魚をぬか漬けした発酵食品で、保存性に優れることから冬の保存食として親しまれた。今もご飯の友や酒の肴として愛されている。

福井県小浜市小浜広峰39 ☎0770-52-0187
www.kutsukiya.jp/
営業時間/8:00~17:00(品物がなくなり次第終了)
定休/1月1日・2日

SABAR 鯖街道 小浜田烏店

「小浜よっぱらいサバ」にはしっかり脂がのり、ほのかに甘さを感じる。癖がないのでいくらでも食べられる。写真は「よっぱらいサバの姿造り」(2580円)。

※「小浜よっぱらいサバ」入手困難のため、現在「お嬢サバ」で提供中。入手目処が立ち次第、再開予定。
カジュアルな雰囲気でゆったりくつろげる店内。原則として土・日・祝日のみ営業なので要注意。
静かな浜辺に面して洒落た店構えのSABAR鯖街道 小浜田烏店。
この小浜湾で養殖され、酒粕を食べて育った「小浜よっぱらいサバ」は、地元飲食店などで食べられる。
「小浜よっぱらいサバ」を提供するSABAR鯖街道 小浜田烏店の留野豊店長。
いけすから直送した鯖を調理するのだからうまくないはずがない。

福井県小浜市田烏 63-14-1 ☎0770-54-3338
sabar38.com/
営業時間/11:00-16:00(ラストオーダー15:00)
定休/月曜〜金曜(祝日は営業)※夏季・冬季に臨時休業有

撮影/遠藤 純 文/仲武一朗

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