400年の古民家の佇まいと里の美味を心ゆくまで愉しむ
丹波と山城の国境、京都盆地の西北にゆったりとした山容を見せる愛宕山は、古来、修験道の道場として知られてきた地だ。その南麓、桂川の北が嵯峨野。平安の頃からその風光が貴族達に愛されてきた行楽地である。今も紅葉狩りの人々で賑わう嵐山駅に降り立ち、洛北の木枯らしに思わずコートの襟を合わせながら車に乗り込む。渡月橋の向こうにその愛宕山を眺めつつ嵯峨野の里をその山裾へ、車は走ってゆく。
京都の人々から「愛宕さん」と呼ばれる愛宕神社は、その山頂に鎮座している。ご祭神は、伊邪那美命(いざなみのみこと)とその子・軻遇突智(かぐつち)。火の神として母の体を焼きながら生まれ落ちたという神だ。それゆえ、愛宕神社は中世頃から火伏せの神として人々に信仰されてきた。京都の料理屋の台所で必ずと言っていいほど見かける「火廼要慎(ひのようじん)」のお札は、この愛宕さんからいただくもの。江戸時代、愛宕信仰は全国に広がり、多くの参拝客が訪れるようになった。
車は、その門前町として栄えた鳥居本の集落を通り抜けてゆく。道幅の狭い古道は、愛宕さんへ続くかつての参詣道・愛宕街道。やがて集落のどん突きで、車が止まった。大きな朱塗りの鳥居の脇に、苔むした茅葺き屋根が美しい民家が佇んでいる。軒下には「鮎茶屋」と墨書きされた行灯がひとつ。その光に浮かび上がるように、軒先には色づいた紅葉が見事な枝を広げていた。
「よう、おいでくださいました。へぇ、あれは愛宕さんの一の鳥居で。山頂までちょうど50丁、つづら折れの道が続きます。うちとこも初めは街道沿いの茶屋で団子を売ったり、旅籠もやったりしていたようです」
江戸時代の初め、400年も前からこの場所で旅人をもてなし続けてきた「平野屋」の女将・井上典子さんが出迎えてくださった。典子さんでもう、十四代目にあたるのだそうだ。生まれも育ちも、もちろん今もこの家で暮らしておられる。
「直し、直しで」とその古さを恐縮されるのだが、何を言おうか。隅々まで磨き込まれた廊下や柱の佇まいに、先祖代々の家を大切に暮らし継いでこられた姿が思い浮かぶ。土間の左には立派なおくどさんが5つもあり、上に掛けられた鍋からしゅんしゅんと湯気が上がっている。今も現役でフル稼働しているそうだ。どうぞ奥の座敷へ、と勧められるまま靴を脱いで上がらせていただく。黒光りする廊下の奥、街道とは反対の山側に面して4つの座敷が並んでいた。通された座敷はもうストーブで十分に暖められていて、寒さに固まった体がほぐれてゆく。コートを脱ぐと、暮れなずむ窓の外に山水を引いた池と生簀が見えた。
「ここらは保津峡や清滝川が近いので、近辺で漁師が釣った鮎を商う問屋を始めたのが、明治の頃だそうです。“ 鮎もちさん ”が両天秤で桶を担いで、京の料亭に鮎を売りに行ったそうです。その頃から、鮎料理も出すようになったようで。今も6月から9月は、鮎料理ですわねぇ」
今日の目当ては、もちろん鮎ではない。この時期にこそ恋しくなる猪鍋だ。一帯で仕留められた良質な猪肉は脂がのり、ことのほか美味いのだと、以前、知人から聞いていた。それ以来、いつか冬の嵯峨野で猪鍋を愉しみたいと思っていたのである。
鍋の前にとまず供されたのは、春先に女将が採ってくるという山菜料理。ゼンマイと湯葉の炊いたん、山ブキの煮付け、自家栽培の椎茸の和え物に、手作りの蕗味噌。熱燗を頼み、しみじみと味わう。
「ツクシ、ヨメナ、ワラビ、セリ……。いろんな山菜や筍が出ますよって。山へ入ると、もうこんなんが出る時期やなぁと、毎年嬉しくなります」と、女将。これをおくどさんで湯がき、保存しているのだそうだ。その焚きつけに使う柴は、調理場を預かる息子さんや旦那さんが山で採ってくるのだという。古く静かな座敷で、そんな話を聞きながら酒を飲んでいると、どこかの桃源郷にでも迷い込んだような心持ちになる。
やがて運ばれてきたのは、見事な赤身に雪のような白い脂をたっぷりとまとった猪のロース肉。赤い前垂れをした十五代目の若女将が、テキパキと給仕してくださる。
「猪も、1頭1頭で味が違うんです。愛宕山の裏やこのすぐ奥でも、鉄砲の音が聞こえるんですが、仕留め方や捌き方でも味が変わるそうで。この猪肉に慣れてしまうと豚肉じゃ物足りなくなってしまうんです(笑)」
くつくつと煮上がった肉を、柚子とみりん、醤油を各自好みの具合に合わせたポン酢と大根おろしでいただく。クセも臭みも全くなく、ただただ濃厚な旨味が口いっぱいに広がり、唸った。若女将が嬉しそうに「最後にこのお出汁で雑炊を炊くととても美味しいんです。でも皆さん、そこまでたどり着かずにお腹いっぱいになられてしまうんです」と、言う。
猪の脂がこんなに美味しいものだとは、知らなかった。酒を飲むのも忘れて黙々と箸を動かしてしまう。脂の溶けた濃厚な出汁がまた美味い。体が芯から温まり、よくぞ猪鍋というものがこの世に生まれたもうたと、有り難くさえなってくる。気づけば鍋を汁までさらい、胃の腑に雑炊が入る余地がなくなってしまった。若女将の予言通りだが、すっかり満足して大きく息を吐いた。
そこへ、江戸時代から続く名物・志んこ団子が運ばれてきた。代々の女将が米粉を山水でこね、おくどさんで蒸して作ってきたものだという。たっぷりと黒砂糖ときな粉がかかった団子には、クロモジを削った素朴な楊枝と、なぜかつやつやとした椿の葉も1枚添えられていた。これは?と女将に問うと、匙だと言う。
「以前、きな粉も最後まで食べたいから、スプーンを付けてくれとお客さんに言われて。でも、スプーンじゃ何でっしゃろ。せやから、すくいやすいような形の葉を選んで、添えるようにしただけです」
いかにも山里のもてなし、というその皿の風情が、美しかった。愛宕山麓の自然に囲まれ、400年間続いてきた暮らし。そこから自然に育まれた、てらいのない美意識なのだろう。そんな素朴で豊かな時空で過ごす時間は早く、軒先を出る頃には冬空に星が瞬いていた。
文/奥 紀栄 写真/遠藤 純