ジビエ料理を始めた理由

桜の名所として知られる城下町・高遠の街中を抜け、山の谷間に続く国道152号線を南下。やがて右手車窓に水音を轟かせるダムと美和湖の水面が見えはじめると目指す長谷地区(旧・長谷村)へと入ってくる。

南アルプスの登山口にもなっている山里・長谷地区。国道からさらに三峰川の支流を遡った杉島という小さな集落に「ざんざ亭」はある。前山が邪魔して山容は望めないが、南アルプスの名峰・仙丈ケ岳の山麓にあたる場所。のどかな趣ある古民家が、森に抱かれ静かに佇んでいた。煙突から白く立ち上る煙もホッと心を和ませる。

夜の帳が下りはじめた風情あふれる佇まい。

「伊那谷の旧長谷村は自然が豊かで野生動物の宝庫。そんな環境の中でジビエ料理を提供する宿をやりたかったんです」

手ぬぐいを頭にきりりと巻き、日に焼けた笑顔で出迎えてくれた宿の主人でジビエ料理人の長谷部さん。常連の間では“ハセヤン”と呼ばれて親しまれている(以下、ハセヤン)。囲炉裏端でお茶をいただきながら宿の開業経緯を聞けば、やはり自然との付き合いは長い。

猪肉を手にするハセヤンこと長谷部さん。

「大学では生物を学んでいましたが、その後、登山をきっかけに北アルプスの槍ヶ岳山荘で料理を学び、山岳救助隊や森林組合、猟師や山に関わる様々なことを経験しながら、料理の世界へ。野生鳥獣を使った料理、特に鹿ジビエに興味を持ったのは、一般的に“臭い、硬い、ばさばさしている”と思われがちの鹿肉をなんとか美味しく食べられないか……と、可能性を追求したかったからです」

「ここでやらなきゃ!」と一念発起

玄関に土間があり昔懐かしい雰囲気。

宿をオープンしたのは2012年。もともと村で宿泊用に改築した築150年の「ざんざ亭」という農家があり、偶然空いていたそれを居抜きで借りることができたという。

「僕が長谷部でここが長谷村。ここでやらなきゃ! と運命を感じましたね(笑)」

長谷地区には現在は約10人の猟師がおり、有害駆除、狩猟期を含めて年間100頭ほどの鹿や猪などが捕獲されている。県内では他にも鴨や雉などの野鳥類、熊などが狩猟期に獲られ、農林水産省の「衛生管理ガイドライン」にそって厳しくチェックされた肉が流通している。

鹿肉とひたし豆のテリーヌ、柿とエゴマ入りパンのサラダ。
囲炉裏端と居間。築150年の古民家の造りは重厚で温かみ満点。

「ジビエ料理は地域活性化にひと役買っていますが、やはり味が良くなくてはダメ。“ジビエってこんなに旨かったんだ”という驚きで食べてもらいたいから、日々独自の研究を重ねています」

宿で提供する料理はもちろん、イベントやテレビ出演など様々な活動を通してジビエの魅力を発信。「伊那を日本一の鹿の町にしたいという思いもありますね」と、ハセヤンは瞳を輝かせる。

じっくり鹿肉を焼く。夏鹿はたくさん新緑を食べ、少し草の香りがするという。
焼き上がりの頃合いを見計らい、肉を切り分けると肉汁があふれ出る。

夜、囲炉裏端に炭火が熾され、待ちに待った夕食が始まった。この日は常連客のベルギービールを飲むジビエ料理の会がメインだったため、料理はイレギュラーではあったが、ハセヤンは酒の種類に合わせて創作ジビエ料理も臨機応変にこなす。

メインは囲炉裏の炭火で焼いた夏鹿とウリ坊(猪の子)の骨付き肉。夏鹿は新芽をたっぷり食べた元気な雄鹿だという。目の前でハセヤンが肉の塊を焼き、程よく焼けたところで切り分けると、肉汁と共に美しいピンク色の肉が花開くように現れた。特製の和風ソースをつけて口に運ぶのだが、少し脂のある赤みの肉は柔らかく旨味たっぷり!

もちろん臭みはない。ウリ坊も同様に焼き、こちらは山椒塩でいただいた。通常コースでは、鹿ハムや鹿パテなども定番として登場するが、その時によって内容は変わるという。

芯温60℃前後のスチームでゆっくり火を入れ、炭火で表面を香ばしく焼いた。

「ジビエを美味しくするには下準備の段階と火の入れ方が大事。火はとにかくゆっくり入れることが大事です。そう、焚き火で焼いたようなジビエを目指しています」

工夫を凝らした感動の演出と味わい。ざんざ亭で味わうジビエ料理は、そんな表現がよく似合う。

※2017年取材

文/岩谷雪美 写真/秋武生