激動の時代を演じた人たちの
息吹きが感じられる建物

歴史好き、ましてや幕末維新という激動の時代に心惹かれている人ならば、幾松の名を聞いたことがない人はいないであろう。後に桂小五郎(木戸孝允)夫人となる、三本木の芸妓の名前である。

桂といえば倒幕運動に大きな役割を果たし、維新三傑のひとりに列せられている人物。ここは、そんな二人が過ごした木屋町の寓居跡なのである。

その築約200年の建物をできるだけ当時のままの姿で利用し、昭和30年(1955)から料理旅館として営んできたのが、ここ「上木屋町 幾松」なのである。

木屋町通に面した門は、さほど大きくはないが歴史の重みを十二分に感じさせてくれる。奥行きがあるうえ、途中に暖簾が掛かっているため、そこからは玄関まで見通すことはできない。

石畳が敷かれたアプローチが続くのが見えるだけだ。賑やかな通りから入るその路地は、片側が竹垣と小さな庭となっており、その静かな佇まいに隔世の思いが湧いてくる。そして上り框で履物を脱ぎ中へ足を踏み入れると、吹き抜けになった坪庭と、庭いっぱいの池を泳ぐ立派な鯉に目を奪われる。

「ご希望の方には“幾松の間”をご案内致します。国の有形文化財に登録されているこの部屋では、幾松と桂小五郎、そして新選組の近藤勇がドラマを演じているのです」

フロント室長の長谷川ひとみさんの言葉に、思わず身を乗り出して聞き入る。これはまさしく、食事前のご馳走に違いない。そのエピソードというのは、部屋に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んでくる大きな長持ちが、重要なキャストであった。

桂が屋敷に滞在していたある日、新選組が御用改めと称して屋敷内に踏み込んできた。桂はとっさに長持ちの中に身を隠し、幾松はその前で三味線を弾いていた。

長持ちの大きさがあれば、人ひとりくらい楽に潜むことができる。中を改めようとする近藤らに対し、幾松は「中に誰もいなければ、その場で切腹してください」と啖呵を切ったのだ。

その覚悟と度胸に感じ入った近藤は、中を改めることなく屋敷を後にした。命がけで桂を守ろうとした幾松の心意気、桂が隠れていると確信しつつも、引き返していった近藤の粋な計らい。現代人が忘れかけている矜持がこの部屋には満ちている。

「お料理はとにかく季節感を大切にしています。新鮮な旬の素材をふんだんに使用し、その時にしか味わえないものの提供を心がけます。加えて五感でも味わえるように、見た目の美しさにも気を配っています」

幾松の料理長・山森英雄さんは、まだ40代半ばという若さにも関わらず、その行き届いた気配りには思わず頭が下がる。そして運ばれてきたお昼の「ミニ会席」は、その言葉通り一幅の絵画のような美しさを纏っている。思わず見とれてしまい、しばし箸をつけるのを忘れてしまう。

先付ひと品目は、無病息災を祈願する神事に欠かせない、6月の代表的な和菓子「水無月」を料理に転用した「水無月豆腐」。

上部の大納言小豆と白い胡麻豆腐は、氷室から切り出したばかりで小石が付いたままの氷をイメージしている。それを冷たい出汁でいただくと、口の中は早くも清涼感に包まれる。

もうひとつの先付は、おくらとろろに生雲丹と穂紫蘇を載せた料理。こちらは紫蘇の爽やかな香りが愉しめる。どちらも初夏を先取りした逸品である。

向付には鯛、鮪、鱧が、絶妙の色合いで並ぶ。当然、旬の魚ならではの、若々しさを感じさせる旨味が凝縮していた。そして何と言っても目と心を釘付けにし、思わず箸が伸びてしまうのが、中央に据えられた「竹篭弁当」だ。

これは「煮物」「猪口」「取肴」で構成されている。どれも色合いと賑わいに富んだ献立で、愉しい気分を呼び起こしてくれる。

なかでも取肴は、その言葉の意味通り、昼からお酒がいただきたくなる品ばかり。元々は主人自身が漁猟したものや、遠来の珍品といった心尽くしの料理を主人自らが取り勧めるという意味だった取肴。転じて酒の肴を意味するようになった。

籠には主なものだけで「小巻き玉子」「鮎塩焼き」「河海老」「鰻八幡巻き」「鮑柔らか煮」「鮭綿糸巻き」などがあり、見た目以上にボリュームがある。そして、どれも旬の素材だからこその濃厚な滋味と、京都ならではの出汁が口の中で絶妙に溶け合うので、その満足感は折り紙付き。

煮物は翡翠茄子に小芋、鰊、車海老が炊かれたもの。ひと口運んだその刹那、爽やかな薫風が口から鼻へと吹き抜ける感覚が味わえる。それは添えられていた木の芽が、初夏の雰囲気を演出してくれるからだ。そして猪口には、口直し的な芋茎胡麻酢和えが用意されている。

「竹篭弁当」だけでもかなり食べ応えがあるが、ご飯物も忘れてはいけない。これからの季節、食感がたまらない鱧寿司が愉しめる。それだけでも十分なのだが、ついつい粽寿司にも手が伸びてしまう。

形の良い天然鮎も手に入る季節には、お昼ご飯でも芸術作品と見間違う鮎料理を、別に注文することもできる。瀬が立つ清冽な流れの中を泳ぐ鮎の姿が、まるで生きているように表現されている。

料理長の山森さんのセンスと腕前に、ただただ恐れ入るばかり。過去には滝昇りを再現した作品も作ったとか。その完成度の高さに、食べることを躊躇してしまうのが難点かもしれない。

「より新鮮な旬のものを味わっていただきたいので、お食事はお昼も夜もご予約をいただいています。それに応じて、その時に一番のものを揃えるようにしています」

そして毎年5月から9月末にかけては「鴨川納涼床」も用意される。川のせせらぎを聞き、大文字や東山、比叡山の山並みを眺めながら最上級の食事をいただく。一度味わったら病みつきになる贅沢だろう。

ただしお昼に床を利用できるのは5月の皐月床と9月の名残床のみ。6月から8月は、お昼の利用をするにはさすがに暑過ぎるからである。