4036【北アルプス山小屋物語】槍ヶ岳山荘。近代登山発展に尽力した歴史

【北アルプス山小屋物語】槍ヶ岳山荘。近代登山発展に尽力した歴史

男の隠れ家編集部
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登山の醍醐味を問われたとき、山歩きの疲れを癒す“オアシス”ともいえる 山小屋の存在をそのひとつに挙げる人は多い。 ここでは北アルプスに数ある山小屋の中でも、明治から大正の創業という長い歴史を誇り、近代登山の発展に尽力した山小屋のひとつ「槍ヶ岳山荘」を紹介する。
目次

度重なる苦難の末に山頂直下に築かれた山荘

宗教登山の霊地であるとともに、近代登山発祥の地でもある槍ヶ岳。開山者・播隆上人(ばんりゅうしょうにん)をはじめとする〝宗教登山者〞、小島烏水やウェストンら登山家を中心とした〝近代登山者〞、古くより槍ヶ岳はそれらの山を愛する人々にとって憧憬の地だった。険しい山の頂上直下に、今や650人の収容が可能な「槍ヶ岳山荘」を築いた穂苅三寿雄(ほかりすみお)も、この山に魅せられたひとりである。

「あんな場所に山小屋を作って君は何をするつもりなんだ?」

大正6年(1917)、三寿雄は槍沢の入口「ババの平」に槍沢小屋を建設すべく、松本小林区署に借地願いを申し出た際、署員にこう言われたという。当時、山中に山小屋を築くという三寿雄の構想は、他者からすればそれほど突拍子もないことだった。しかし、その心中には山小屋の必要性が確固たる決意として固まっていたのである。三寿雄と槍ヶ岳との出会いは、その3年前に遡る。

槍ヶ岳に山小屋の建築を決心した穂苅三寿雄

長野県松本市の「六九町(ろっくまち)」と呼ばれる新興商店街で、竹細工を営む穂苅商店の跡取りとして育った三寿雄。彼は幼い頃より街から見える北アルプスに魅了されており、16歳の時にはすでに単独で徳本峠を越え、上高地へと足を運んだという。

なかでも、槍ヶ岳には強い憧れを抱いており、いつかは登ってみたいと考えていた。しかし、当時の登山には案内人を雇うことが必要不可欠。それには相応の費用がかかってしまう。そして、ようやく資金を貯めて願いが叶ったのが、大正3年(1914)23歳の時だった。中房温泉(なかぶさおんせん)へ行って個人で案内人を雇い、4泊5日の登山に臨んだのである。

その山行は彼の人生の大きな転機になったといえる。壮大な槍ヶ岳により魅せられたことに加え、新たな思いも芽生えた。それこそが山小屋の必要性である。当時、槍ヶ岳には石室があったものの、寒いうえに雨にも弱く、登山者が休息する場所としては望ましいものではなかった。そこで彼の心には「近代登山を支えるには山小屋が必要」という決意が刻まれたのである。

念願の山小屋を開業するも幾多の困難に見舞われる

この頃、徐々に登山の人気が高まりつつあり、大正5年(1916)には東久邇宮(ひがしくにのみや)が槍ヶ岳登山を行った。それに合わせて登山道や橋が整備されることとなり、三寿雄はこれを契機と捉え山小屋建設のための借地願いを松本小林区署に申請。前述の通り署員は半ば呆れながらも、すんなりと申請を認めてくれたという。

しかし、この先は一筋縄にはいかなかった。山小屋開業には莫大な金が必要で、とても三寿雄だけで工面できる額ではない。そこで彼は、昔から親交が深く、山への思い入れも強かった山田利一に協力を持ちかける。後に常念小屋の創業者となる人物である。さらに、商店街の青年会「正交会」にも資金を募ることで、ようやく必要資金を確保した。

そして、大正6年(1917)の10月には小規模ながら山小屋「アルプス旅館(後に槍沢小屋に改名)」を完成させる。まさに念願の開業であったが、その経営は厳しいものだった。思うように客は来ず、雪崩で建物は幾度となく損傷したことから、赤字経営が続くことになる。しかし三寿雄は諦めるどころか、更なる山小屋開業に挑んでいくのであった。

それは山田利一の影響も大きかったといえるだろう。案内人・小林喜作の協力を得て槍ヶ岳へよりスムーズにアクセスできる「常念乗越(のっこし)ルート」を開拓し、それに合わせて大正8年(1919)に利一は常念小屋を創業した。

三寿雄はこれに刺激を受け、後に燕山荘を創業する赤沼千尋と手を組み、新たな山小屋「大槍小屋」の建設に着手。ババの平よりもさらに上のグリーンバンドに建設地を選んだものの、新築の建物をまたも雪崩に流されてしまう。惜しくも、この大槍小屋は位置的にふさわしくなかったという結論に至る。

頂上直下の山小屋開業により起死回生をはかる

まさに苦難の連続といえるが、ここでも三寿雄は諦めず、またもや新たな山小屋建設の構想を打ち立てる。その場所に選んだのは、槍ヶ岳の肩。そこなら、もう雪崩に悩ませられることなく、さらに登山者も多く見込めると考えたのである。

さっそく三寿雄は小林区署に借地願いを出したが、建設予定地が長野と岐阜の県境であったこと、同様の位置に目をつけた申請者が他にもいたことなど、諸々の問題が生じた。しかし紆余曲折の末、大正14年(1925)に許可が下り、翌年8月には「肩ノ小屋(後の槍ヶ岳山荘)」が完成。山頂直下の標高3,060m、遂に三寿雄念願の山小屋が誕生したのである。

それまで度重なる苦難に見舞われたが、この肩ノ小屋で起死回生を果たした。槍ヶ岳の頂上付近で美しい景観が楽しめると、小屋の評判が次第に広がってゆき、年を重ねるごとに大勢の登山客が訪れるようになったのである。その後、山小屋の経営は三寿雄から息子の2代目・貞雄、3代目・康治へと受け継がれ、それにつれて経営する山小屋の数、規模も拡大。今では槍ヶ岳山荘のほか、槍沢ロッヂや大天井ヒュッテなど5つの山小屋を経営するまでになった。 

創業者である三寿雄の功績は、山小屋経営だけではない。山岳写真撮影や播隆上人の研究など、多方面でも精力的に活動した。その群を抜く行動力こそが、苦難に屈せず北アルプスを代表する山小屋のひとつに築き上げた所以であろう。


《槍ヶ岳山荘》
・空に槍を突いたような山容が美しい槍ヶ岳(標高3180m)は、国内5番目の標高を誇る高峰。その山頂直下には、収容人数650人を誇る大規模な山小屋「槍ヶ岳山荘」が建っている。焼きたてパンが食べられる喫茶や広々とした談話室など設備も充実。
・URL:https://www.yarigatake.co.jp/yarigatake/
・TEL:0263-35-7200(槍ヶ岳山荘事務所)
※お問い合わせにつきましては、上記連絡先にお願いします。

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