四国の雄として名を馳せた長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)。その身に不幸が訪れたのは嫡男・信親の討死からであった。元親が指名した家督継承者が、さらなる不幸を呼ぶ。
「七人みさき」
土佐高知には「七人みさき」と呼ばれる祟りがある。災害や事故、海で溺死した人間の死霊ともいわれている。高知市の春野地域に伝わる話によると、昨日まで元気だった人が急に寝つくと「七人みさきに会ったからだ」といわれ、主君により悲惨な最期を遂げさせられた吉良親実(きら ちかざね)と、その後に斬られた七人の家臣(実際には八人)の怨霊の仕業とされた。
親実が主君の長宗我部元親の怒りを受け、小高坂で切腹したのは天正16年(1588)10月4日で、家老の久武親直(ひさたけ ちかなお)との反目が影響していた。
天正14年(1586)、元親の後継者だった嫡男の長宗我部信親が戦死。元親は四男の盛親を立て、亡くなった信親の娘を娶わせようと考えた。これに真っ先に賛成したのが久武で、この機に元親や盛親に取り入り、自分の勢いを張ろうと考えたのだ。
これに対して親実は「家督相続は長幼を守るべき」と異を唱え、元親の次男・香川親和(かがわ ちかかず)を推した。しかも激しい気性の持ち主だった親実は、元親に対してたびたび諌言(かんげん)したのである。そこに久武が親実に企みがあるような讒言(ざんげん)を元親に吹き込んだため、逆鱗に触れてしまったのだ。
切腹を伝える使者が訪れた夜、親実は小高坂の家で碁を打っていた。元親からのふたりの使いが「主君の命である」といって、親実に切腹を申しわたすと、親実は沐浴して身体を清め、腹を召したのだ。その数日で、親実の旧臣であり親実に与した永吉飛騨守(ながよし ひだのかみ)ら七人は斬られた。
以来、怪異が続いた。小高坂では首のない武士が白馬に乗って走るのが目撃され、大入道が鉄棒を引っぱって走るのを見た者もいた。目撃すると、その日から大熱を発したのだ。元親に取り入って讒言を行った久武の家では八人の子がおかしくなり、七人まで死んでしまったという。
【データ】
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)
天文8年(1539)~慶長4年(1599)
長宗我部氏第21代当主で、永禄3年(1560)に家督を相続すると天正3年(1575)に土佐一国を平定。天正13年(1585)には四国全土を制覇するも、同年豊臣秀吉による四国征伐に破れ、土佐一国を安堵される。翌年、九州出兵で嫡男信親が戦死すると、性格が一変し冷酷無比な一面が顕われた。
高知市春野郷土資料館
高知県高知市春野町西分340
TEL:088-894-2805
開館時間:10:00~18:00(土日は17:00)
休館日:毎週月曜・8月を除く第3金曜日・祝日
入館料:無料
アクセス:JR「高知駅」より、とさでん交通バスハビリセンター線で約1時間
※「七人みさき」も含む「はるの昔ばなし」企画展を令和3年(2021)8月31日(火)まで開催中
文/野田伊豆守 写真提供/「長曽我部元親画像」(部分)東京大学史料編纂所所蔵模写
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