半年前までは信長に対する、
崇敬の気持ちを表わしていた

流浪の身であった光秀にとって、自分を取り立ててくれた上に、大身の大名にまで引き立ててくれた信長は大恩人にほかならなかった。その権勢がピークを迎えるのは、天正8年(1580)頃である。

光秀は天正3年(1575)から丹波国攻略を任されていた。丹波は山深い国であり、狭い土地に国人領主たちが割拠していたため、大変攻略しづらい地であった。光秀は苦労を重ねつつ、天正7年(1579)8月、遂に平定する。

その勢いを駆って細川藤孝と共に丹後国をも平定したのである。こうした功績が認められ、光秀は天正8年に丹波一国が加増され、以前から領していた近江の滋賀郡5万石合わせ、34万石を領する大大名となったのだ。

そればかりではない。丹後を領することとなった細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の高山右近や中川清秀といった織田家に属する大名が、光秀の寄騎となった。彼らが領した地も合わせると、約240万石が光秀の勢力下に置かれたのである。戦後、歴史家の高柳光寿はこの時の光秀の立場を、近畿管領と呼んでいる。

何者かもわからないような前半生を送ってきた光秀にとって、それは夢のような大出世であった。それを裏付ける証しとして挙げられるのが、天正9年(1581)6月2日、光秀が家法として定めた『明智光秀家中軍法』に記されたあとがきだ。

そこには「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしてくれ、そのうえ莫大な人数を預けてくれた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と記されている。

奇しくも本能寺の変が起こる1年前に、光秀は信長に対してこれ以上はないというほどの感謝の念を表しているのだ。天正10年(1582)の正月に行われた茶会の席では、信長自筆の書を床の間に飾っていたことが記録されている。半年前でもまだ、信長に対する崇敬は変わっていないようだ。この頃、信長の天下統一は目前まで迫っていたのだ。

武田家が滅んだ後に
現実味を帯びてきた地方赴任

天正10年2月3日、信長は長篠の戦い以来、力が衰え続けていた甲斐の武田勝頼を討伐することを決定する。この戦いで主力を担ったのは、信長の嫡男・信忠であった。先鋒は2月3日に岐阜を出陣。信忠に率いられた本隊は12日に岐阜城を後にした。

武田方は、多くが戦わずして逃げ去ったり投降したりした。そんななか、信長は最後の仕上げを見届けるため、3月5日に安土城を出立する。光秀も信長の軍に従軍している。

この武田討伐の最中に、信長が光秀を衆人環視の場で折檻したと記している軍記物もあるが、信憑性は低いとされている。だが武田家が滅びた後、重臣のひとりであった滝川一益が伊勢から関東へ赴任させられたのを見て、光秀は思うところがあったかも知れない。

というのも、これで信長の信任を受けていた軍団長といえる有力な家臣は、光秀を除きみな畿内から遠く離れた版図周縁部に配置されたことになったからだ。

天下統一を目前に控えていた信長は、光秀も畿内からどこか版図の周縁部に異動させることを考えていたものと思われる。その上で畿内一円は信長と、織田一族が領有することを意図していたのであろう。

光秀は天正3年(1575)、信長の奏請により惟任の姓を賜っていた。これは九州の日向国(宮崎県)の名族の姓だ。しかも官位は日向守である。筑前守を賜った秀吉と共に、九州の地へ赴任させられると考えたのではないだろうか。

文化人でもある光秀にとって、京都から遠く離れた辺境の地に住むのは堪え難いことに感じたのかも知れない。さらに光秀とその重臣の斎藤利三が交渉に当たっていた長宗我部元親との約束を、信長が反故にして四国攻めを決めたのも、光秀の面子を潰すのに十分であった。

もちろん、それだけで大恩ある主君を裏切るとは思えない。いくつもの要因が重なったと思われる。

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文/野田伊豆守