戊辰戦争の際に江戸を救った功労者

その功績たるや、あまた登場した幕末維新の英傑の中でも、第一等のものではなかろうか。その人は今では忘れられがちな、鉄舟山岡鉄太郎である。

武芸を重んじる家に生まれた鉄舟は、幼少の頃から武術に類い稀な才能を発揮する。長じるにつれ、禅や書の達人ともいわれるようになった。そんな鉄舟の存在が際立ったのが、戊辰戦争の舞台がいよいよ江戸へと迫ってきた折であった。

鳥羽伏見の戦いに勝利した官軍は、戦況有利な状態で駿府(静岡)まで進軍してきた。幕府側の総師・徳川慶喜は、江戸城を出て上野寛永寺に入り恭順の意を示す。しかし慶喜の意に反し、江戸での決戦を主張する者が多かった。そこで官軍の本営に、慶喜の真意を伝える使者を送ることにしたのである。

国立国会図書館蔵

しかしこれは至難の業だ。官軍本営まで単身で乗り込んでいくには当然、命を捨てる覚悟が必要なのである。その使者に選ばれたのが鉄舟であった。鉄舟は供をひとりだけ連れ、官軍将兵が幾重にも警備する中を、大音声で「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と呼ばわりながら、堂々と歩いていった。

命を捨てる覚悟でお膳立てをした功績

駿府で官軍の東征軍参謀の西郷隆盛と会見した鉄舟は、勝海舟からの手紙を渡し、慶喜の意向を伝え、朝廷への取り計らいを切々と頼む。その気持ちにうたれた西郷は、武力をもって将軍家を倒す、という目的を変更したのである。鉄舟との会見から5日後、芝高輪の薩摩藩屋敷で西郷・勝の会見が行われ、江戸城無血開城が実現した。

そのため、江戸を戦火から救ったのはこの二人と思われているが、実は命を捨てる覚悟で談判した山岡鉄舟の存在があってこその実現だった。

その後、西郷隆盛は以下のように、山岡鉄舟について賞賛した。

「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」

『力の及ぶ限りは善き方につくすべく候』

この言葉は山岡鉄舟が15歳の時に己に課した「鉄舟二十則」の中のひとつである。後にこの言葉の通り、鉄舟は江戸を救うべく大仕事を成し遂げた。鉄舟二十則は人が生きていくための基本が語られた格言集であり、現代人も心に刻んでおきたいものである。

鉄舟二十則

一、嘘を言うべからず
一、君の御恩忘れるべからず
一、父母の御恩忘れるべからず
一、師の御恩忘れるべからず
一、人の御恩忘れるべからず
一、神仏ならびに長者を粗末にすべからず
一、幼者を侮るべからず
一、己に心よからず事、他人に求めるべからず
一、腹をたつるは道にあらず
一、何事も不幸を喜ぶべからず
一、力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし
一、他を顧して自分の善ばかりするべからず
一、食する度に農業の困難をおもうべし、草木土石にても粗末にすべからず
一、ことさらに着物を飾りあるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得る
一、礼儀をみだるべからず
一、何時何人に接するも客人に接するよう心得る
一、己の知らざることは何人にてもならうべし
一、名利のため学問技芸すべからず
一、人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず
一、己の善行を誇り人に知らしむべからず、すべて我心に努めるべし

文/野田伊豆守