18133【大河ドラマ『麒麟がくる』がさらに面白くなる!】史実から読み解く「織田信長」と義父「斎藤道三」

【大河ドラマ『麒麟がくる』がさらに面白くなる!】史実から読み解く「織田信長」と義父「斎藤道三」

男の隠れ家編集部
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2020年大河ドラマ『麒麟がくる』は戦国時代の名将・明智光秀(長谷川博己)を主役としたオリジナル作品だ。物語前半期の重要人物である、美濃の守護代・斎藤道三(本木雅弘)は織田信長(染谷将太)の舅として、信長の父・信秀の死後、庇護者として信長を支えた。今回は信長の視点から道三の最後までの流れを紹介する。
目次

信長の器量を見出し、強力な庇護者となった道三

父・織田信秀の死後、まだ若年であった信長には父が築いた勢力を継承するだけの威信はなく、国内外勢に虎視淡々とその座を狙われている状況の中、信長は積極的な機動戦を駆使し、まずは領内における敵対勢力を着実に征討していった。

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天文22年(1553)4月信長の舅である斎藤道三(どうさん)の呼びかけにより、尾張国富田聖徳寺(しょうとくじ) で信長と道三の会見が実現した。信長が噂通りのうつけ者かどうかを直接会って確かめようとしたといわれるが、結果的に道三は信長の真の器量を見出し、以後、庇護者として信長の尾張統一を支えることになる。

積極的な機動戦術で今川勢を撃破

今川氏の尾張侵攻

信長が尾張平定を進めていた頃、東方では駿河の今川義元の勢力が三河、さらには尾張にまで及んでいた。義元はさらに領域を拡大すべく、天文23年(1554)正月、織田方の将・水野信元(みずののぶもと)が守る緒川(小河)城(おがわじょう)の攻略にかかった。まず三河の重原(しげはら)城を落とした今川勢は境(さかい)川を渡って緒川城北方の村木(むらき) に砦を築くと、寺本(てらもと)城の花井氏を調略によって寝返らせ、緒川城へと至る陸路を封鎖した。

水野氏は尾張国緒川から三河国刈谷(かりや) にかけてを領していた豪族で、もともとは親今川・松平広忠派であったが、信元の時代に織田信秀方の旗手を鮮明にしたという歴史を持つ。信長にとっては大切な同盟者であり、また今川氏のこれ以上の尾張侵攻を防ぐためにも、信元を見捨てるわけにはいかなかった。とはいえ、清須城における戦いを進めていた最中の出来事であり、那古野城を空にすることはできない。そこで信長が頼ったのは、舅の斎藤道三であった。この信長の行動から、当時、信長と道三が相当良好で、強固な軍事同盟を締結していた様子をうかがうことができる。

道三を感服させた信長の戦い振り

正月21日、信長は道三が派遣した将・安藤守就(あんどうもりなり)率いる約1000の軍勢に那古野城の留守を任せると、叔父・信光とともに緒川城へ向けて出陣した。那古野から緒川までは20キロ余の道程であるが、陸路はすでに今川勢によって封鎖されていた。そこで信長は熱田に歩を向け、船で知多半島西岸へと渡った。この日は大風で波が高かったため、水主(かこ)衆は出航に反対したが、信長はそれを振り切り、渡海を強行したという。

23日、信長は緒川城に入り、信元と参会。そして翌24日午前8時頃、村木砦へと攻め入った。信元勢は東大手を、信光勢は西搦手(にしからめて) を、信長は大堀を備えた南側から攻撃を仕掛ける。このとき、信長は自ら陣頭指揮を行ない、堀端から砦に対して鉄砲による連続射撃を浴びせかけた。そしてその援護を受け、小姓衆が死をも恐れず我先にと砦への突撃を敢行する。信長勢の犠牲は多大なものがあったが、織田方の絶え間のない攻勢に砦内の死傷者も多く、午後5時頃、ついに今川勢は降伏を申し入れたのであった。

25日、緒川城を後にした信長は自身を裏切った花井氏の寺本城下を焼き討ちにし、那古野城へと帰陣した。

後日、帰国した安藤から合戦の経過を聞かされた道三は「すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ」と思わずつぶやいたという(『信長公記』)。

最大の後ろ盾を失い窮地に追い込まれる信長

斎藤道三の最期

斎藤道三という後ろ盾を得て今川勢を撃ち破り、また、尾張守護代・織田信友を打ち倒すなど着実に尾張の敵対分子を制圧していった信長であったが、弘治元年(1555)4月、戦略の見直しを余儀なくされる大事件が勃発した。道三の長子・高政(義龍)が謀反を起こしたのである。道三が隠居し、家督を高政に譲ったのは天文23年(1554)のことであった。その後、高政は当主の地位を絶対的なものにすべく、叔父・長井隼人佐道利(ながいはやとのすけみちとし)と謀って二人の弟を謀殺。道三には断絶を言い渡した。

これに怒った道三は挙兵し、高政との一戦を決するも、美濃の在地領主のほとんどは高政側に立ち、数の上で劣勢を強いられた。弘治2年4月20日、道三は長良川(ながらがわ)を隔てて高政と対峙する。道三勢約2700余に対し、高政勢は約17500。道三に勝機はなく、ついには討死して果てた。

信長は道三を救援すべくただちに美濃大良(おおら) まで進軍したが、戦闘には間に合わなかった。とそこへ戦勝に意気上がる高政勢が攻め寄せてくる。両軍は尾張と美濃の境にあたる及河原で対峙したが、このとき、尾張上四郡の守護代で岩倉城主の織田信安(のぶやす)が信長の留守をついて清須近郊にまで攻め入ったとの報が届く。窮地に追い込まれた信長は自ら殿軍をつとめて高政勢の追撃を振り切ると、尾張に取って返し、岩倉近郊を焼き払って清須に帰還した。

斎藤道三という後ろ盾を失ったことで、信長は三河に加え、美濃にも大きな敵を抱えることになり、一転して窮地に追い込まれた。のみならず、尾張国内でも反信長勢力の動きが活発化することとなる…。

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