17133【大河ドラマ『麒麟がくる』がさらに面白くなる!】かの織田信長の父、「織田信秀」は史実ではどのような人物だったのか?

【大河ドラマ『麒麟がくる』がさらに面白くなる!】かの織田信長の父、「織田信秀」は史実ではどのような人物だったのか?

男の隠れ家編集部
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2020年大河ドラマ『麒麟がくる』は戦国時代の名将・明智光秀(長谷川博己)を主役としたオリジナル作品だ。今回は物語の重要人物である、美濃の守護代・斎藤道三(本木雅弘)のライバルとして登場した織田信長の父・織田信秀(高橋克典)の存在も話題となった。そんな信秀だが、史実ではどういう人物でどのような足跡を歩んだのか?
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経済力をもって織田家中に台頭した、織田信秀

織田氏は、記録によると応永9年(1402)ごろに尾張守護の斯波(しば)氏から尾張守護代に任じられ、その後、応仁・文明の乱など経て織田家家中は分裂を余儀なくされることとなる。そんな最中、織田大和守(やまとのかみ)宗家を支える三奉行のひとつ、信秀・信長父子を輩出した弾正忠家(だんじょうのじょうけ)は、信秀の父の代で伊勢湾に向かって開かれた湊町・津島を掌握し、経済的に大きく発展した。

その跡を継いだ信秀は、大永6年(1526)4月から同7年(1527)6月までの間に家督を継承したと見られている。

織田弾正忠家の新たな経済基盤・熱田

当時の尾張国守護代は織田達勝であるが、『言継卿記(ときつぐきょうき) 』によると、天文元年(1532)、信秀は達勝、及び信秀と同じく清須三奉行家の一であった小田井(おたい)の織田藤左衛門と抗戦状態にあったといい、同年、和睦に至った。両者が対立した理由は不詳だが、弾正忠家が勢力を伸長しつつあった状況に達勝らが危機感を抱いたためだと推測されている。

天文3年(1534)に嫡男・信長が誕生した頃、隣国三河の松平清康(徳川家康の祖父)が勢力を伸長し、天文4年(1535)、尾張東部へと侵攻してきた。しかし清康が家臣に殺害されるという事件(守山崩れ)が起きると、以降、松平宗家は駿河の今川氏の庇護下に入ることとなり、その権勢は失墜した。

こうして三河からの圧力が弱まると、信秀は達勝と連携して天文7年(1538)、今川氏豊(うじとよ)から那古野城(なごやじょう)を奪い、拠点を勝幡城から那古野城へと移した。翌年には古渡城(ふるわたりじょう)を築き、熱田神宮の門前町であり湊町としても栄えていた熱田の町を押さえている。

徐々に求心力を失っていった信秀

その後も信秀は愛知郡や春日井郡南部を勢力下に治めるなど着実に支配圏を拡大していき、天文9年(1540)6月には三河への侵攻を開始。松平長家(ながいえ)が治める安城城(あんじょうじょう)を攻略した。このとき、矢作川以西の領主の多くは織田方に与したという。

こうして西三河にまで影響力を及ぼした信秀は、次に北方の美濃に狙いをつけ、天文13年(1544)8月、大垣城(おおがきじょう)を攻略した。さらに支配領域を拡大すべく、同年9月22日、越前・朝倉氏と連合して斎藤利政(道三)の居城・稲葉山城(いなばやまじょう)に侵攻。しかし大敗を喫し、美濃国進出は失敗に終わった。

この敗北によって信秀の威勢は動揺し、三河では今川氏の、美濃では斎藤氏の攻勢が強まっていった。天文17年(1548)には大垣城を道三に奪い返されている。一方、尾張国内においては守護代の家臣ら清須衆(きよすしゅう)が信秀の古渡城を攻撃するなど、対立が深まっていった。そうした中、美濃と三河の二国に敵を抱えることは不利であると悟った信秀は道三と講和を結ぶことを決し、嫡男・信長と道三の娘・濃姫(のうひめ)との婚姻を成立させた。

これにより北方の憂いを取り除いた信秀は三河における戦いに備え、同年、古渡城を破却し、末盛(すえもり)に築城。居城を移して三河への勢力伸長を企図したが、天文18年(1549)11月、今川勢の攻撃により安城城が陥落した。こうして信秀は三河における支配地を失い、尾張と三河の国境付近では今川氏の勢力が強まることとなった。

信秀の跡を継いだ信長

短期間で三河、美濃へと勢力を伸長した織田信秀であったが、その支配は安定したものではなかった。今川氏、斎藤氏の反撃にあって安城城、大垣城など他国の拠点を失ったばかりか、尾張国内においても清須衆との対立が続き、苦境に陥ることになる。

そのような状況下、信秀は病に倒れてしまう。代わって領国内の政務を行なったのが信長であった。天文18年(1549)11月、信長は熱田社の造営などについて熱田八か村に制札を与えた(「加藤秀一氏所蔵文書」)。これが、信長が発給した文書の初見であるという。時に、信長16歳。信秀は信長を政務に関与させることで、織田弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の体制を強化しようとしたと推測されている。『信長公記』によると、天文19年(1550)正月17日にはそれまで信秀に従っていた犬山城主・織田氏と楽田(がくでん)城主・織田氏が柏井口まで攻め込んでくるという事態が勃発するが、信秀麾下の軍勢がこれを撃退したという。

天文21年(1552)3月、信秀は病死し、信長が弾正忠家を継承した(信秀の没年については天文20年説もある)。しかし、その前途は多難であった。まだ若年であった信長には父が築いた勢力を継承するだけの威信はなく、国内では弟・信勝(のぶかつ)をはじめとする親族や清須衆が、三河では今川氏が虎視眈々とその座を狙っていたのである。

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