織田信長と最も間近に接した宣教師の壮年期

日本に初めてキリスト教が伝来した戦国時代。1549年(天文18)、フランシスコ・ザビエルの九州上陸に始まり、数多くの宣教師が海を渡り、わが国に教えをもたらした。

リスボン生まれのルイス・フロイスもその一人である。フロイスといえば、あの織田信長と面会し、コンペイトウ、ビロードの帽子、鏡など当時きわめて貴重かつ高級だった品々を贈り、布教を許されたことで知られる宣教師だ。

フロイスは信長と何度か対面しているが、彼の著書『日本史』には、そのときの様子が克明に記されている。

それによれば信長は最初、得体の知れない異国人たちを相当警戒したようで、接見の場所に一行が通されても何ら声をかけず、フロイスの動作を注意深く観察し、贈り物をひとつ受け取っただけで終わった。意外なほどの用心深さがうかがえる。

しかし後日、信長の方から二度目の面会を申し入れた。面会所は屋外で、信長は虎の皮を腰に巻き、藤杖を手に持って自ら二条城の工事を陣頭指揮している途中だったが、「離れた現場の一角で、一人の兵士が通りがかりの婦人に軽く戯れた。信長の眼がそれを見逃すはずはなかった。突如、疾風のように駆け下ると、一刀のもとにその兵士の首を刎ねた」と、信長の冷徹さと、目を見張るような武技の早業とをフロイスは同時に目の当たりにしている。

安土桃山時代、日本と西洋の文化や品物の相互交流が盛んに行われたが、その媒介役となったのがキリスト教であり、当時「伴天連(バテレン)」と呼ばれた宣教師だった。

「年齢は幾つか。ポルトガルとインドから日本に来てどれくらいになるか。どれだけの期間勉強をしたか」など、フロイスはその場で通訳を介して問われた。信長は宗教だけでなく、西洋の道具や食べ物、文化をも運んできた彼ら宣教師にいたく興味を持ち、そのメリットを考え、歓迎する気になったのだろう。

フロイスは「本能寺の変」における信長の最期の様子も記している。明智光秀の大軍に囲まれた信長が薙刀を振るって闘い、業火の中に49年の生涯を閉じる一連の流れは日本の文献『信長公記』と似ているが、細かい点でかなりの違いも認められ、貴重である。

武家社会のしきたり、価値観に対して時に共感し、時に違和感を覚えた様子が見てとれる。

ルイス・フロイス(1532~1597)

ポルトガル・リスボン出身のカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本に上陸し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。文才に優れ『日本史』や『日欧文化比較論』など、当時の日本社会や偉人たちの人物像を伝える貴重な資料の数々を書き残している。

若き外交官が接した幕末日本と攘夷の嵐

日本が「鎖国」から目覚め、開国まもない幕末に来日した外交官がいる。アーネスト・サトウである。

サトウは、西郷隆盛・勝海舟・坂本龍馬など当時の日本を代表する武士たちと頻繁に会見した。伊藤博文や小松帯刀とは、食事を共にしたときの具体的な料理の内容、味まで。

その会話の様子や描写は実に明快で生き生きしている。しかし、当時の日本は「攘夷」の嵐が吹き荒れていたため、生麦事件をはじめとする外国人殺傷事件の報にも接している。

「日本刀は剃刀のようによく切れ、おそろしい深手を負わせる。日本人は相手の息の根が止まるまでずたずたに斬ってしまう(中略)。両刀を帯びた人間さえ見れば刺客ではないかと恐れるようになり、往来でそんな人間に出会うものなら、それをやり過ごしてから、これで大丈夫と思うところで神に感謝した」

開国まもない頃は「攘夷」(異人打ち払うべし)という価値観のもと外国人は攘夷志士から襲撃の対象とされ、そのたびに国際問題に発展した。

それとは別の外国人殺害事件の犯人が処刑場で斬首される現場をサトウは見た。その下手人の辞世の句を聞き、首と胴が離れたのを見届けた彼は、次のように感想を述べている。

「この暗殺者を憎まずにはおられないが、しかし日本人の立場になってこの事件をみると、正直のところ私は何としても、この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国をこんな手段で救うことができると信ずるまでに誤った信念をいだくようになったのを遺憾とせずにはいられなかった。しかし、日本の暗殺者の刃に倒れた外国人の血も、またその報復として処刑された人々の生命も、やがて後年その実をむすんで、国家再成の樹木を生ぜさせた大地に肥沃の力をあたえたのであった」

「敬和」と書かれたサトウ直筆の揮毫(きごう)。来日後に日本語を猛勉強し、のちに普通に日本人と会話ができるようにまで上達。すっかり親日家となった。

イギリスへ帰るとき涙して別れを惜しんだ

その後、サトウ自身も袋井の宿で攘夷派浪士の集団に襲われ、護衛役の会津藩士の奮戦で危うく難を逃れたが、その体験記はまさに命がけ、迫真の描写だ。

また、軍艦に通訳として乗船し、長州との馬関戦争や薩摩との薩英戦争にも参加し、砲煙の中を潜り抜けてもいる。日本の侍たちとの実戦、その後の和解にいたるまでの流れは波乱に富んでいる。

サトウがイギリス本国に帰るとき、横浜の港が遠ざかっていくのを見て涙をにじませる記述がある。危ない目にも遭ったが、この若き外交官は忙しい日々を過ごすうち、すっかり日本の魅力にとりつかれたのだろう。

外国人独自の客観的な視点を通じて知る「武士と武士道」には、我々が忘れかけている日本文化が満載されている。例えば風呂敷で贈り物を持参したり、受け取ったりするようなことまでが。

過去の外国人から日本の魅力を教わる感覚はなんとも不思議であり、新鮮な興奮と感動を伝えてくれる。

アーネスト・サトウ(1843~1929)

イギリス・ロンドン生まれの外交官。自らの希望で英国公使館の通訳生として19歳の時に来日した。のちに通訳官、駐日英国公使、駐清公使を務めた。日本滞在は1862年から1883年および1895年から1900年まで合わせて25年間に及ぶ。サトウは本名。公的には結婚していないが、日本人女性の武田兼との間に3人の子をもうけ、二男は植物学者の武田久吉として名を残した。

もっと詳しく知りたくなったら…。おすすめの書籍を紹介!

フロイスの見た戦国日本
川崎桃太
中公文庫/880円

フロイスの著書『日本史』のダイジェスト版。信長や秀吉らの人物論を中心に、風俗、文化、芸術等をテーマとした記述を抜き出し、簡潔な解説を付けている。

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一外交官の見た明治維新(上・下)
坂田精一訳
岩波文庫/1250円

風雲急をつげる幕末・維新の政情の渦中で、生麦事件等の血なまぐさい事件や条約勅許問題等の困難な紛争を身をもって体験したアーネスト・サトウの回想録。

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文/上永哲矢

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