(TOP写真)金﨑宮は南北朝時代の尊良親王(後醍醐天皇一の宮)と恒良親王(後醍醐天皇皇太子)を祭神として祀る神社。金﨑宮を起点に金ヶ崎城址を巡る散策ルートが整備されている。
歴史の転換点となった金ヶ崎の戦いの舞台へ
敦賀の街並みを一望する小高い峰が、波の静かな海岸線へと突き出すように伸びている。
その中ほどにある金﨑宮は桜の名所として知られ、花見の時期には毎年多くの人々で賑わう。
大切な相手と桜の小枝を交換するロマンチックな「花換えまつり」は特に有名だ。良縁を取り持つ出会いの宮として、季節を問わず参拝者が絶えることはない。
かつてここには城があった。戦国時代、織田信長が越前攻めに際し、北近江の浅井長政に後背を衝かれ撤退戦を強いられた金ヶ崎の戦いの舞台だ。この戦いには徳川家康の姿もあったと伝えられる。
徳川家康、絶体絶命!? 懸命の撤退戦始まる
敦賀は交通の要衝である。古代律令時代には北陸道の関門として愛発関が置かれていたといわれる。近代の鉄道黎明期には東海道線の支線(当時)がいち早く敦賀まで整備された。
そして2024年春には待望の北陸新幹線もやってくる。
話を戦国時代に戻そう。金ヶ崎の戦いである。敦賀(金ヶ崎)は、織田信長の越前攻めにおいても避けて通れない要地であった。
信長は、木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)、徳川家康らとともに元亀元(1570)年、若狭国から敦賀へと攻め入った。信長、秀吉、家康の三英傑が揃い踏みした初めての戦いである。
信長軍は緒戦から朝倉方の籠もる金ヶ崎城とその峰に続く天筒山城を落としていく。
しかしこのとき、同盟関係にあった近江国の浅井長政が反旗を翻す。フィクションであるが夫・長政の企てを知らせるべく、お市の方が信長に小豆袋を送ったエピソードで知られている。
急報を受けて信長は撤退を決める。実際は少数の供回りだけを連れて命からがら京へと逃げ帰った。
ここで殿を務めた秀吉や家康は、朝倉方の追撃を防ぎながら撤退戦を展開した。この戦いが「金ヶ崎の退き口」ともいわれる所以だ。
ソニョーポリ
金ヶ崎城址を散策した後は「ソニョーポリ」で空腹を満たそう。ランチ1900円〜(写真はプチコース2500円)、ディナー6000円〜。
オープンキッチンのカジュアルな雰囲気で気兼ねなく利用できる。金﨑宮にほど近い敦賀赤レンガに店を構える。
「本場欧州の食材に地元敦賀の新鮮な魚介類や野菜を組み合わせたイタリアンをお楽しみください」と店主の山本剛司さん。
福井県敦賀市金ヶ崎町4-1
TEL:0770-47-6707
営業時間:ランチ11:30〜14:00(LO)、ディナー(要予約)18:00〜22:00(LO)
定休日:水曜 ※敦賀赤レンガの休館日に準ずる
HP:ソニョーポリ
国吉城が存在しなければ信長は逃げ切れなかった!?
寄せ手(攻撃側)の立場となり、峻険な峰々に連なる城郭群を歩いてみた。果たしてどこから攻めても勝算を見出すことはできなかった。難攻不落の山城である。
金ヶ崎の戦いを語る上で欠かせないのが国吉城だ。若狭国の守護大名武田氏の重臣だった粟屋勝久が古城を利用して築いたと伝えられている。越前国との国境に近く、戦略上重要な役割を担っていた。
国吉城がその名を天下に知らしめたのは、永禄6(1563)年から始まった越前朝倉氏による若狭侵攻を撃退し続けたことによる。毎年のように襲来する朝倉勢を、国吉城に立て籠もって迎え撃ち、一度も落城することがなかった。
織田信長軍による越前攻めの際には、信長一行が入城し、徳川家康も軍議に参加したと伝えられる。
金ヶ崎の戦いで家康は、国吉城を目指して壮絶な撤退戦を行った。敦賀から十数kmの国吉城が健在であったことは心強かったはずだ。国吉城の目前、佐田の海岸では朝倉勢に追われて壊滅寸前の木下秀吉隊を、同じく撤退中の家康軍が救ったという伝承もある。
無事に撤退を完了した徳川軍は同年6月、織田軍と共に近江国で浅井・朝倉軍と激突して勝利する(姉川の戦い)。国吉城がなければ越前攻めの結末は違っていたかもしれない。国吉城が歴史にもたらした影響は小さくはない。
若狭国吉城歴史資料館
国吉城と、その城下町である佐柿を紹介する資料館。
展示室では史料や発掘調査出土品のほか、模型や写真、解説パネルで国吉城と佐柿の450年の歴史を解説している。旧田辺半太夫家住宅の母屋と座敷(佐柿町奉行所移築)も必見。
福井県三方郡美浜町佐柿25-2
TEL:0770-32-0050
開館時間:9:00〜17:00(4月~11月)、10:00〜16:30(12月~3月)※入館は閉館30分前
入館料:一般100円、小人50円
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
蓬莱客館あみや
敦賀の歴史と伝統がもてなす「蓬莱客館あみや」に滞在した。創業は寛文10(1670)年、廻船問屋をルーツに持つ老舗だ。客室はわずか3室。モダンなベッドルームもある。
江戸時代後期の建物が今も使われている。時がゆっくりと流れる。
福井県敦賀市蓬莱町14-9
TEL:0770-22-3181
料金:1泊2食付き1人1万3500円〜(宿泊は2人から)
HP:蓬莱客館あみや
謎に包まれた祈念石は安倍晴明の霊力を宿す?
戦国時代の金ヶ崎の戦い、さらには先の大戦など、数々の戦火を免れ、敦賀の人々から信仰を集める神社がある。
晴明神社は、平安時代の陰陽道の大家である安倍晴明にゆかりのある神社だ。陰陽道とは古代中国で生まれた陰陽五行説を起源として、日本で独自に発展を遂げた天文や占いの体系である。
晴明はこの地で陰陽道の研究に励んだとする伝説がある。当時の敦賀は大陸との交易の玄関口であり、中国の文物が入手しやすい環境にあったことを考えると空想はふくらむ。
拝殿には晴明が占いに用いたと伝わる「祈念石」が安置されている。この石を晴明がどのような秘術に使ったのかは謎に包まれたままだ。
賽銭を投げ入れて石の上に乗ると願いが叶うとされるが、見ざる力が働くのか、賽銭が弾かれてしまうことがある。
越前の山々を借景にした寝殿造庭園で往時を偲ぶ
徳川家康に続く大河ドラマのヒロインとして注目されている平安時代の女流作家、紫式部。
彼女は生涯でただ一度だけ、都を離れて暮らした経験がある。越前国司に任命された父・藤原為時に従って、当時越前国府であった武生(現在の越前市)で若き日の1年余りを過ごしている。
紫式部が生きた平安時代の趣を今に伝える美しい庭園が越前市にある。日野山をはじめ武生盆地の山々を借景に、寝殿造の釣殿の周囲に配した池や築山が美しい調和を見せている。
同じような風景を紫式部も見たに違いない。紫式部の越前国での生活の様子は『紫式部日記』にも書き残されている。都ではあまり見ることない雪景色は特に鮮明に心に刻まれた。
多感な青春時代を越前で過ごした経験は、紫式部のその後の創作活動に影響を与えたに違いない。
紫式部と国府資料館 紫ゆかりの館
紫式部公園に隣接した紫式部のテーマ資料館。越前での暮らしを原動力に、紫式部が源氏物語を著すまでを絵巻物風に紹介するアニメーション映像や、紫式部が過ごした越前国府を発祥とする丹南地域の伝統的工芸品について、展示や物販を通して紹介している。
福井県越前市東千福町21-12
TEL:0778-43-5013
開館時間:9:00〜17:00
入館料:無料
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)、12月29日〜1月3日
HP:紫式部と国府資料館 紫ゆかりの館
御菓子司 野木
明治5年創業の老舗「御菓子司 野木」の定番が、紫式部にちなんだ練り羊羹「紫㐂武」(しきぶ)。栗羊羹と柚子羊羹がひとつ包みになって1個173円。
福井県越前市元町2-35
TEL:0778-22-0837
営業時間:9:00~19:00
定休日:月曜
写真/遠藤 純 文/仲武一朗
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