78242【大河ドラマ『どうする家康』】結城秀康と越前・福井|徳川家康の子でありながら、数奇な運命を背負った男

【大河ドラマ『どうする家康』】結城秀康と越前・福井|徳川家康の子でありながら、数奇な運命を背負った男

男の隠れ家編集部
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目次

■福井初代藩主となった結城秀康が築いた福井城

福井城址は桜の名所としても知られる。

福井城址の桜が見頃を迎えていた。内堀の水面に桜の花が映り込む。舞い下りた花びらは花筏となり水面を美しく彩る。

福井城は、結城秀康が築城し、約270年間の長きにわたり越前松平家17代の繁栄の舞台となった名城である。築城当初は四層五階の壮麗な天守が福井平野を見下ろしていたという。

山里口御門の櫓内は資料展示室だ。
福井の名の起こりとなった井戸跡「福の井」が福井城天守台下に残る。

秀康は天下人である徳川家康の子であり、その十分な資質をもちながら、数奇な運命をたどる。元服前に羽柴秀吉の養子となり、秀吉に実子・鶴松が生まれると結城晴朝(下総国)の養子に出されてしまう。

関ケ原の戦いの戦功により越前国を与えられたのも束の間、34歳という若さでこの世を去ってしまうのだ。福井城は秀康の人生最後の大作といえるだろう。

藩主が登城の際に利用した山里口御門。御廊下橋とともに復元されている。
結城秀康像(東京大学史料編纂所模写)

■歴代藩主と同じ視線で福井城の親水空間を偲ぶ

●名勝 養浩館庭園

結城秀康が築いた福井城。その城下町は幾重もの堀で囲まれ、天守を中心とする屋敷群がまるで広大な水面に浮かんでいるかのようだったという。

こうした圧倒的な水の空間に刺激を受けた感性から、養浩館庭園の景観は生み出されたのかもしれない。

質素で洗練された数寄屋造りの屋敷が、泉水、築山などの様式を取り入れた回遊式林泉庭園に映える。座敷から庭園を観覧できるのは名勝庭園としては珍しい。

養浩館庭園は、数寄屋造りの屋敷を備える回遊式林泉庭園であり、江戸時代初期から中期を代表する名園のひとつに数えられている。当初は福井藩主松平氏の別邸として、御泉水屋敷と呼ばれ愛用されてきた。

福井城の本丸から北東約400mの位置にあり、外堀の土居に接している。3代藩主、忠昌時代に藩主別邸となり、城下を流れる芝原上水を引き込むことで御泉水屋敷となったと伝えられている。

遺構の上に再築された屋敷から庭園を愛でる。静かな水面が目の前から広がる親水空間だ。
茶会・饗応の席や藩主一族の休養の場、住居など、さまざまに活用されてきた。養浩館の名は後に松平春嶽によって付けられた。孟子の言葉「浩然(こうぜん)の気を養う」に由来する。

芝原上水は、結城秀康が福井城を築城する際、家老の本多富正に命じて整備させた上水道である。城下の住民の飲料水や城濠の水を補給し、さらに城外の水田灌漑用水としての役割を兼ねた。

養浩館庭園は太平洋戦争下の福井空襲により建造物を焼失したが、庭園そのものは良好な状態に保たれていたため、昭和57年(1982)に国の名勝に指定されている。

侘び寂びを感じさせる質素な作り。
廊下境となる北面東端の板戸には鶏の絵が描かれている。
脇棚の袋戸に施された青貝入りの螺鈿細工が見事。
離れ座敷の御月見ノ間(おつきみのま)から庭園を眺める。

現在の庭園は文政6年(1823)の「御泉水指図」を基本に、戦前の古写真や発掘調査などをもとに復原整備されたものだ。発掘された遺構の上に直接屋敷を建築するという画期的な手法によって、庭を眺める視線の高さが当時と同じ状態に保たれている。

かつての藩主たちが楽しんだように、屋敷内からゆったり景観を味わいたい。眩いほどの春の新緑が、静かな水面に映り込んでいた。

名勝 養浩館庭園
福井県福井市宝永3-11-36
TEL:0776-20-5367
開館時間:9:00~17:00(3月1日〜11月5日19:00まで) ※入館は閉館の30分前まで
休園日:年末年始(12月28日〜1月4日)
入園料:大人220円(中学生以下、70歳以上無料)、福井市立郷土歴史博物館との共通券350円

●福井市立郷土歴史博物館

養浩館庭園を案内してくれた福井市立郷土歴史博物館の学芸員・松村知也さん。
養浩館庭園に隣接する同館では、福井城とその歴史についても学ぶことができる。
都市化によりその多くは埋め立てられてしまったが、往時は多重の堀によって堅固に守られていた福井城。松平文庫(福井県文書館保管)

福井市立郷土歴史博物館
福井県福井市宝永3-12-1 
TEL:0776-21-0489
開館時間:9:00~17:00(3月1日〜11月5日19:00まで) ※入館は閉館の30分前まで
観覧料:大人220円(中学生以下、70歳以上無料)、養浩館庭園との共通券350円
休館日:年末年始(12月28日〜1月4日)

■結城秀康が整備した宿場町。近代は鉄道の町として発展

今庄宿で一般公開されている旧京藤甚五郎家住宅。当時は酒造業などを営む一方で、脇本陣にも指定された有数の旧家だ。家族や使用人が暮らす主屋(写真)と、武家が宿泊・休憩する本陣形式の座敷棟とで構成されている。

宿場町の面影を色濃く残す今庄宿(南越前町今庄)を訪ねた。

今庄宿は、福井初代藩主となった結城秀康が慶長7年(1602)、公用を伝えるために馬を乗り継ぐ宿駅のひとつとして整備したと伝えられる。

当時の地割(区画)も良好に残されており、あえて街道筋を直角に曲げた矩折や、曲がりくねって見通しの利かない街並みは、外敵からの防御のために秀康が命じて作らせたとされている。

北国街道と北陸道が分岐する追分に道標が建つ。「左 京 伊勢 江戸 道 右 京 敦賀 若狭 道」とある。
豪雪地帯の宿場町らしく冬期に設置される雪囲いも特徴的。

幾重にも山が連なり、峠越えの道が全て集まることから、北陸の玄関口として栄えた今庄宿。江戸時代の旅人はここで疲れを癒し、また難所へと向けて出発した。参勤交代で福井を早朝出立した福井藩一行の最初の宿泊地でもあったという。

街並みを散策すると、当時の賑わいが容易に想像できる。瓦葺きの屋根上に本卯建が高々と掲げられ、中には塗籠の外壁をもつ商家もある。これらは防火意識の現れであると同時に富の象徴でもあった。

幕末の記録によれば、今庄宿には旅籠が55軒、酒屋と茶屋がそれぞれ15軒ほどもあったという。今も当時から商いを続ける酒蔵や商店が点在している。

創業天保6年の酒蔵、畠山酒造。
旧京藤甚五郎家住宅の座敷棟、脇本陣としての格式が備わる。
福井県産さかほまれを使った「雪きらら」を勧めてくれたご主人の畠山拓也さん。

近代以降の今庄は、鉄道の町として発展を遂げる。福井県の嶺南と嶺北(敦賀〜今庄間)を結ぶ旧北陸本線が開業したのは明治29年(1896)のこと。その最大の難所といわれた山中峠越えには、最大25‰(1000m進むと25m昇降する)という急勾配が存在した。そのため今庄駅では全列車が停車し、最後尾に峠越えを支援する機関車を増結し、また敦賀から到着した列車は最後尾の機関車を切り離していた。

昭和37年(1962)に当時日本最長(約14km)の北陸トンネルが開通したことから、その光景は見られなくなってしまうが、廃線後残されたトンネル群は自動車用道路として今もなお活用されている。これらは「旧北陸線トンネル群」として国の登録有形文化財に指定されているだけでなく、「海を越えた鉄道 〜世界へつながる 鉄路のキセキ〜」として日本遺産にも登録されている。

「旧北陸線トンネル群」の中で最長の山中トンネル。左側に見えるのはスイッチバックを行った山中信号所の延伸用トンネルだ。

■一乗谷と越前松平氏

●福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館

一乗谷朝倉氏遺跡のほど近くにある安波賀春日神社。朝倉氏は初代当主孝景以来、同社を崇敬し、戦時においては戦勝を祈願するなど密接な関係を保った。

結城秀康以前、戦国時代の越前国(福井)は長らく朝倉氏の領国であり、朝倉氏5代当主義景が織田信長によって滅ぼされるまで、その中心は一乗谷であった。

戦いに破れ、一乗谷は朝倉氏滅亡後に静かな山村へと変わったが、朝倉氏の城下町があった由緒地として松平氏によって供養されるようになった。

特に7代当主吉品(よしのり)は、朝倉氏が安波賀(あばか)春日神社を厚く崇敬していたことを知り、朝倉氏の鎮魂と越前松平氏繁栄のため、境内に朝倉氏を祀る瀧殿社を造営した。

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館では朝倉館が原寸で再現されている。
一乗谷と越前松平氏の関わりを説明してくれた学芸員の石川美咲さん。
令和4年オープン。一乗谷を訪ねたらぜひ立ち寄りたい。

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館
福井県福井市安波賀中島町8-10
TEL:0776-41-7700
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
入館料:一般700円、高校生400円、小中学生200円、70歳以上350円
休館日:月曜、年末年始

■越前おろしそばのルーツは、そば大好き家老・本多富正

福井といえばそばである。たっぷりの大根おろしと削り節とねぎをかけていただく「越前おろしそば」は、福井のソウルフードだ。

福井におけるそばの起源は戦国時代。一乗谷初代・朝倉孝景が戦中の食糧として、栄養が豊富で収穫期間が短いそばを栽培させたのが始まりとされている。ただその頃は、そばの実を石臼で粉にし、熱湯を入れてこねた「そばがき」のようなものだったらしい。

麺状のそばを福井に広めたのは、江戸時代初めに結城秀康の御附家老としてやって来た本多富正だ。富正は、領地として与えられた府中(現在の越前市)でそば栽培を奨励するとともに、大根おろしの汁と一緒に食べるそばを工夫した。富正自身も好んで食べ、府中やその周辺に定着させたという。

福井では現在も県全域で希少な在来種のそばが作り続けられている。福井の在来種は小粒で実が詰まっており、コシの強い麺に仕上がるのが特徴だ。

●笏谷そば

定番「いなりおろしそば」(写真:1600円)は季節ごとの天ぷらがそばの上に盛られ、太めの平打ち麺につゆがよく絡む。鴨肉のうま味が染み出す「鴨南蛮」も人気。そば粉は福井県産の「大野在来」「勝山在来」を使用している。

笏谷そば
福井県福井市足羽4-5-10 
TEL:0776-36-0476
営業時間:11:00~20:00 
定休日:火曜(祝日営業)

●たからや

「うまいそばには良い材料が必要」と、福井県産「大野在来」の早刈りそばを使用し、しっかりとした食感に仕上げている。同店でファンの多いカレーはだしを効かせ、そばにもうどんにもよく合う。

たからや
福井県福井市新田塚1-25-1
TEL:0776-26-1175
営業時間:11:00~15:00(LO14:40)、17:00~21:00(LO20:40)
定休日:水曜

■もの作りの礎を築いた結城秀康と松平忠直

福井県鯖江市は、もの作りの町だ。特によく知られているのはめがねフレームで、国内生産の実に約96%、世界的に見ても約20%は鯖江産といわれるほど、最高峰の技術力・開発力・品質力で高いシェアを誇っている。

鯖江を象徴する電光看板、通称「ハリウッドめがね」。農家の知恵と手作業で始まっためがね作りは、現在は高度に分業化され、町全体がひとつの大きな工場となった。
松平忠直は配流先の九州で没するが、鳥羽野の住人が現地の廟所から土を持ち帰り、その恩恵を忘れないために鯖江市内の長久寺内に墓を建立し、菩提を弔っている。

鯖江の礎を築いた歴史上の人物に松平忠直がいる。結城秀康の長男であり、早逝した秀康の後を継いで2代藩主の座に就いている。

当時の鳥羽野(鯖江市の一部)は、原生林が生い茂り、人々の往来にも困るほど交通の難所として知られていた。鳥羽野の開拓事業は秀康の時代から始められていたが、福井藩主にとってそれは悲願でもあり、忠直も開拓事業を引き継いだ。

特に元和4年(1618)には鳥羽野を南北に貫く北陸道を改修し、「諸役免除・諸商売構えなし」の高札を立て、商工業の保護奨励を図った。結城秀康と松平忠直、今でもこのふたりは郷土の開拓者として尊敬されている。

めがね作りはフレームだけでも200以上の工程があり、機械化が進んでいるとはいえ掛け心地に関わる工程は今も人間の感性が欠かせない。(取材協力/谷口眼鏡
光沢を出す艶磨きも職人による手仕事だ。一つひとつ丁寧に磨き上げられる。(取材協力/谷口眼鏡
鯖江のめがねは仕上げの良さはもちろん掛け心地も上々。(取材協力/谷口眼鏡

●めがねミュージアム

めがねミュージアムには「めがね博物館」が併設されている。
時代ごとの製造機械が展示され、鯖江のめがね作りの歴史も学べる。

めがねミュージアム
福井県鯖江市新横江2-3-4 めがね会館 
TEL:0778-42-8311
営業時間:めがねSHOP10:00~19:00、
体験工房/めがね博物館/SabaeSweets:10:00~17:00、MUSEUM CAFE:10:00~16:00
定休日:水曜(祝日営業)・年末年始

写真/遠藤 純 文/仲武一朗

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