11984伝説のマタギの素顔とは? 故・松橋時幸さんの信条|秋田県 阿仁マタギの本家

伝説のマタギの素顔とは? 故・松橋時幸さんの信条|秋田県 阿仁マタギの本家

男の隠れ家編集部
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全国にその名を轟かすマタギの本家「阿仁マタギ」。秋田県北秋田市の阿仁町で、古くから続くマタギの家に生まれ、マタギの頭領・シカリとして知られた、故・松橋時幸さん。共に猟に出た家族に、伝説のマタギと謳われる松橋さんの素顔について話を聞いた。
目次

山の神を敬い、山の掟を守り、無益な殺生をしない狩人・マタギ。厳しい雪山で命をかけて銃を構えたマタギの狩猟文化について考えてみたい。

阿仁マタギとは一体なにか?

秋田県北秋田市阿仁町は、全国のマタギにとって重要な意味を持つ地域である。延慶2年(1309)、阿仁で発見された阿仁鉱山(昭和53年閉山)は、かつて日本一の銅の産出量を誇り、奈良の大仏にもその銅が使われたと伝えられている。銅のほかにも金や銀を産出し、鉱山の町として栄える一方、この地域には山深い谷で狩猟生活を営む集落が点在していた。それが、阿仁マタギである。

昭和初期に撮影された貴重な1枚。阿仁打当のマタギ組が行なった春の熊狩。

彼らが狙う獲物はカモシカやサル、ウサギなど様々だが、主たる狙いは熊。山の上へと逃げる熊の習性を利用し、6~7人ほどの一団で下から追い、射手(鉄砲)の待つ場所へと誘導し仕留める。卓越した熊狩りの技術やノウハウを持つ阿仁マタギは、“旅マタギ”でもあった。故郷を離れ何ヶ月も旅をしながら狩猟するため、旅先で婿養子に入ることも多く、そのため阿仁の名と技術が日本各地に伝わった。

かつてのマタギが携行した道具の数々。右上がマタギの銃として有名な村田銃。

各地に存在した阿仁直系のマタギ集落

阿仁にはいくつかのマタギの集落がある。代表的なのは根子(ねっこ)、打当(うっとう)、比立内(ひたちない)だ。同じ阿仁とはいえ、実は少しずつ狩猟の方法に違いがあったようだ。故・松橋時幸さんが残した証言によると、「私たち比立内のマタギが打当へ応援に行ったら、巻き方(熊を追い詰める方法)が違っていた」そうだ。

これは同じ阿仁地域といえども、それぞれの出自の違いが原因かもしれない。比立内の起こりは日光から来たマタギが祖、根子や打当は平家の落人が祖といわれている。とはいえ、彼らが熊を狙い続けた理由は共通している。健胃薬として珍重された熊の胆(い)の原料である胆嚢だ。だがそれも薬事法の改正により、かつてのように取引ができない現在、山の神を敬い、山の掟を守ってきた本来の姿は薄れつつあるという。

マタギのリーダー・シカリの家に代々伝わる巻物「山達根本之巻」。

故・松橋時幸さんについて、娘婿・利彦さんに聞く

松橋時幸さんは作家・甲斐崎圭の代表作『第十四世マタギ ー松橋時幸一代記ー』で、その半生をリアルに描かれた伝説的なマタギである。昭和9年(1934)生まれで、平成23年(2011)に亡くなるまで、比立内の松橋家第14代頭領・シカリとして生きた人だ。今回、時幸さんの娘婿にあたる、松橋家の第15代マタギ・松橋利彦さんに話を伺った。

- まずは出会いから伺ってもよろしいでしょうか?

「初めて義父に会ったのは25年ほど前。私と妻の結婚が決まり、挨拶に行った時でした。当時、義父は60歳くらいだったと思いますが、第一印象は『どこにでもいる普通のおじさん』でしたね。実は私、同じ秋田でも海側にある能代の出身で、それまでマタギという職業があることさえ知りませんでした」

「だから義父を題材にしたノンフィクション小説が書かれるほどスゴイ人だとは、その時は夢にも思わなかったですね。結局、結婚してから初めて銃を握り、今年で21年目。今や自分が松橋家の第15代マタギになっているのだから、人生わからないものです」

故・松橋時幸さん。
現当主・松橋利彦さん。

- 結婚されてすぐ、マタギの世界に入られたのですか?

「もちろん、私が松橋家に入った頃にはもうマタギだけで食べていける時代ではなかったので、義父は農業をメインの仕事にしていました。私は義母が営んでいた旅館で働き、熊猟が解禁になる毎年11月15日になると、熊が冬眠に入るまでのひと月の間、一緒に山へ向かったものです」

- 仲間との関係はどういったものでしたか?

「普段はマタギ仲間と集まることは少なかった義父ですが、獲物があった時は反省会という名目で集まって飲んでいましたね。やはり古くからの仲間たちなので、反省会というよりは昔話に花が咲く、という感じでしたが。普段は静かな義父も、この時ばかりは陽気になっていたのが印象に残っています」

仕留めた熊は頭を西に向けて仰向けにする。

- 道具や流儀について伺ってもいいでしょうか?

「義父が晩年に使用していた銃は、豊和ゴールデンベアというライフルでした。このライフルは私が受け継いで今も使っています。マタギの銃として有名な村田銃も義父は持っていて、ずいぶん長い間、使用していたそうです。残念ながら、実際に撃っている姿を私は見たことがありませんが……」

「マタギは猟から帰ってくると、念入りに銃の手入れをします。使ったら分解して磨かないと錆びてしまいますからね。義父は昔から、家族が集まる囲炉裏端で銃の手入れをしていたそうです。妻は幼い時に、その様子をよく見ていたそうですよ」

講演会で話す時幸さんの貴重な姿。

- 時幸さんの信条、矜持はどんなものでしたか?

「義父は“人間も自然の一部”を信条としていました。人だけが偉いわけじゃないよ、ということですかね。また常々『獲物は山神様からの授かりもの』だとも言っていました。だから無益な殺生はしてはいけない。当たり前のことですが、我々これからのマタギもこの姿勢で山に入ろうと思います」

晩年になると、知人に頼み込まれた時に限り講演会で講師を務めることもあったという時幸さん。マタギの生き方、自然や神様との向き合い方を語っていたという。

語り手/松橋利彦 取材協力/北秋田市役所、須貝智行

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