関所破りの末、若くして命ついえた少女『お玉』
元禄15年(1702)2月10日の寒い夜、一人の少女が関所破りで捕らえられた。少女の名前はお玉といい、伊豆半島の南端・石廊崎の大瀬村から生活苦により江戸へ奉公に出されていた。しかし、つらい生活に耐えかねて逃げ出したのである。
故郷へ帰るためには箱根の関所を通らなければならない。もちろん通行手形などない。関所破りは主君や親殺しと同等の大罪であったから、捕まったら最後である。しかも「関より外に出る女は、細かく証文と見比べ、本人確認をした上でなければ関所を通ることはできない」と厳しく取り締まられた。周辺の集落は守り村として不審者の監視を行っている。
そこで夜に紛れてお玉は裏山へと入り込んだ。しかし裏山に巡らされた柵を越えることができず、ついに発見され捕らえられたのである。そして2ヶ月後、4月27日にお玉は獄門の刑に処された。
この悲劇の物語は江戸時代を通じて虚実ない交ぜに広がっていった。そのひとつが、旧街道沿いの「お玉ヶ池」である。昔は「なずなが池」といったが、お玉の首を洗った、身を投げたといった噂がささやかれるようになり、いつしか池の名前を変えてしまった。
記録に残るだけで6人が箱根の関所破りをしたことがわかっている。なかには芦ノ湖ににげて溺死した者もいたそうだ。現在はお玉を祀るための供養碑が道端にひっそりと佇んでいる。
関所を目指す旅人が立ち寄った憩いの茶屋へ行く
そんなお玉ヶ池から約1km。20分も歩けば「甘酒茶屋」にたどり着く。かつて、街道沿いには何軒かの茶屋があったが、現在残るのは甘酒茶屋の一軒のみ。十三代目の山本聡さんによれば、「祖父母の時代は街道のメインルートが変わって、廃業の可能性もありました。でも旅の人たちが立ち寄って安堵する姿を見て、必要とされている嬉しさを感じて、やめられなかったみたいです」という。
甘酒茶屋では江戸時代から変わらない製法で、地場産のうるち米と米麹のみで仕込む甘酒をいただくことができる。旅人の滋養強壮・栄養ドリンクの役割もあっただろう。さらに、毎朝きねでつく餅を炭火で焼く力餅も絶品だ。遠路をはるばる歩いてきた旅人にとって、素朴ながらも優しい風味で腹を満たす甘酒と力餅はご褒美だったに違いない。
軒先きに座り空を眺め、山を望み、関所を目前に旅人たちはそれぞれ物思いに耽ったことだろう。古に確かにここで営まれていた景色が目に浮かぶ。表立って関所を目指すことができなかったお玉も、きっとこうして茶屋に座り疲れを癒したかっただろう。そんなことに思いを馳せながら、しばしの休憩をとるのであった。