狩猟神と諏訪信仰について
古来、諏訪地方では狩猟によって得た鹿肉などを食してきた。その歴史を伝えているのが諏訪大社上社の神事・御頭祭(おんとうさい)や鹿食箸(かじきばし)、鹿食免(かじきめん)である。
諏訪大社は諏訪湖畔にある上社(本宮・前宮)・下社(秋宮・春宮)の2社4宮の総称で、全国に1万社あるといわれる諏訪神社の総本社である。
そのため諏訪信仰は日本各地に影響を与えてきたといえるだろう。そして狩猟の神、水の神、武勇の神として古くから信仰され、神供として鹿の頭を捧げてきた。
有名な諏訪の勘文(下記)は、古くから伝わる神符である。狩猟などの殺生を罪悪として忌み嫌った時代にも、この神符を授かった者は、生きるために鹿肉を食べることを許された。「慈悲と殺生は両立する」というお諏訪さまの説を、諏訪大社では「鹿食免」という免罪符にして発行してきたのである。
諏訪の勘文
狩猟神としての諏訪信仰が発生した時期は明らかになっていないが、獣たちを成仏させるための方便として下記の四句の偈(げ)が伝えられた。
一読すると人間本位の文章にも読めるが、当時の人々にとっていかに殺生という罪悪への不安が大きかったかということもわかる。だからこそこの勘文が全国に広められたのである。
<業盡有情(ごうじんのうじょう)>
前世の因縁で宿業の尽きた生き物は
<雖放不生(はなつといえどもいきず)>
放ってやっても長くは生きられない定めにある
<故宿人身(ゆえにじんしんにてやどりて)>
したがって人間の身に入って死んでこそ
<同證佛果(おなじくぶつかをしようせよ)>
人と同化して成仏することができる
こうした狩猟文化は、縄文遺跡が多く発掘されている古代の諏訪を伝えるものといえるかも知れない。茅野市にある八ヶ岳総合博物館の学芸員・柳川さんはこう話してくれた。
「諏訪地方は土壌が酸性のため史料が残りにくいのですが、旧石器時代の鹿の骨などは出土しています。動物に対する殺生は、平安時代から禁じられる傾向にあったようです。実際に鎌倉時代には規制が始まり『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、諏訪神社以外の鷹狩りを禁止した記述も残っています」
また江戸時代などの狩猟には現在でいう害獣駆除の目的もあったという史料も残されているという。飽食の現代では忘れがちだが、先人たちが飢えの恐怖と殺生という行為に向き合っていた一面が見えてくる。
「こうした鹿信仰などの神事は日本各地にあったのではないでしょうか。それが諏訪大社にはどういうわけか今も残されている。そこに古代の日本の姿を見ることができると言えるかも知れません」
諏訪大社上社前宮で行われる「御頭祭」とは?
毎年4月15日に行われる諏訪大社上社第一の祭儀が「御頭祭」である。その昔は旧暦の3月、酉の日に行われたため「酉の祭」などとも呼ばれている。これは諏訪大明神の子孫とされる生神・大祝(おおほうり)が3カ月の御籠りを終えた後に儀式を執り行う日とされており、本宮から大祝がいる前宮に向かって総勢200人近い神輿渡御がなされる。
そして神輿を前宮十間廊に安置して、贄として捧げられるのが作物や鹿の頭、ウサギなどの鳥獣魚類の特殊神饌なのだ。昔は75頭の鹿頭が各地から集められて神に供えられていたが、毎年必ず一頭だけ耳の裂けた鹿がいたといわれる。これは「高野の耳裂け鹿」と呼ばれ、諏訪大社の七不思議のひとつに数えられている。
現在は鹿肉と共に剥製の鹿頭が用いられている。こうした特殊神饌のため、狩猟に関係した祭りといわれることもあるが、実際は五穀豊穣を祈って行われる祭りなのだ。
ジビエは西洋だけの食文化ではない
明確な史料がないため、諏訪大社の信仰を直接、縄文時代とつなげることは難しいかもしれない。しかし、諏訪地方では少なくとも古代から人々の暮らしが営まれてきたことははっきりとしている。
その証拠に諏訪市では約3万年前の旧石器時代から江戸時代までの遺跡が230カ所あまり登録されており、その多くは原始・古代遺跡なのだ。
縄文時代の住居跡からは動物の文様が表現された土器。旧石器時代のナイフ形石器や尖頭器など黒曜石を用いた石器の製作場も見つかっている。こうして彼らは狩猟採集を生業として暮らしを営んでいたのではないだろうか。そして古代のいつ頃か諏訪神社の信仰を中心として政治・経済・文化が発展していき、諏訪地方の基盤ができあがった。
ジビエという言葉を聞くと、西洋を発祥とする食文化のように思えるが、日本にも同じように豊かな食文化が受け継がれてきたことは間違いようのない事実なのである。
写真/柳沢かつ吉(一部)