江戸時代の物流を担った東海道最大の難所・箱根越え
お江戸日本橋から京の三条大橋まで、約492kmの距離を結んでいた東海道。江戸時代に定められた五街道のひとつで、経済や文化を支え続けた大動脈である。宿場の数から「東海道五十三次」と呼ばれ、親しまれていた。その東海道中で、最大の難所とされていたのが「箱根八里」の峠越えである。
西国から関東へ入る際、箱根山は大きな障害となっていた。ここを越える道は有史以来、何度か道筋が変わっている。古代は御殿場から足柄峠を越え、矢倉沢に下る足柄道が使われていた。しかし平安初期の延暦19〜21年(800〜802)に起こった富士山の噴火により足柄峠が通行不能となると、迂回(うかい)路として箱根を通る街道が整備された。
鎌倉時代には元箱根から芦之湯を抜け、湯本へと下る湯坂道が官道となった。そして徳川幕府が開かれると、現在も残る箱根越えの道が公道となったのだ。
徳川幕府は東海道の整備には力を注いだ。一里ごとに塚を築き、箱根には宿場も新設。さらに関所を設け、旅人を監視した。その一方、延宝8年(1680)には石畳を敷き、旅人たちの便宜を図った。こうして江戸時代を通じ、多くの文物が往来する道となったが、明治維新後に国道1号線が開通すると、旧道は役目を終える。
箱根の山中には神奈川県側の東坂と静岡県側の西坂が、今もいにしえの姿を残す石畳と共にひっそり残されている。昔の旅人気分が味わえる峠道は、自らの足で越えてみる価値が十分の、極上のトレッキングスポットなのだ。
変化に富んだ山道に続く石畳道で歴史を踏みしめる
本格的な石畳の山道が随所に現れ始める神奈川県側の畑宿(はたじゅく)を出発し、芦ノ湖、旧関所、箱根峠を越えて静岡県側の山中城跡付近まで歩いていく。畑宿の外れに残る立派な一里塚を後にすると、道は早くも樹木がうっそうと茂る森の中に敷かれた石畳の急坂となる。
畑宿を抜ける車道はこの先、箱根七曲りと呼ばれるヘアピンカーブの軟斜面だが、旧街道は旅人を直登という拷問で迎える。
歩道橋上に石畳が敷かれた「宙吊り旧街道」を過ぎると、昔の旅人が涙をこぼしたほどの急坂、樫木(かしのき)坂が待ち受けている。あまりに急なため、現在は階段となっているほど。さらにその後は猿ですら足を滑らせるといわれた猿滑(さるすべり)坂と続く東坂最大の難所だ。
猿滑坂を登りきり車道を越え、しばらく緩い坂を進むと立派な茅葺き屋根の古民家が見える。この地で300年以上も続く「甘酒茶屋」で、山坂道を往来する旅人にとってのオアシスである。
【こんな所も見どころ!】箱根峠越えで必ず寄りたい歴史の生き証人「甘酒茶屋」
甘酒茶屋は江戸の昔から年中無休、日の出から日の入りまで営業し、峠道を行く人を名物の甘酒や力餅でもてなし続けてきた。砂糖なし、ノンアルコールで栄養満点の甘酒は、お土産としても人気。近年は季節のスペシャルスイーツも話題だ。
峠の先には絶景の大展望がご褒美のように広がった
茶屋を後にすると再び石畳の登りが出現。いい加減、足が重くなってきたところで、ようやく眼下に芦ノ湖が見える。
そこから元箱根までは膝が笑うほどの下りとなる。石仏が並ぶ賽の河原や遊覧船乗り場を過ぎると、関所手前までは有名な杉並木道が続く。これは旅人を暑さ寒さ、さらに風雪から守るありがたい存在だった。
復元された関所を過ぎれば、かつての箱根宿である。箱根駅伝往路ゴール地点を過ぎ、芦川集落の駒形神社の先から再び山道の旧道となる。
石畳の急坂を箱根峠まで一気に登ると、ここで県境を越えて静岡県に入る。峠には大きなパーキングがあり、その外周に石畳の歩道がある。
パーキングの先で本来はゴルフ場に沿って車道を歩いて旧道に入るのだが、この区間の道は2019年の台風で崩落し通行止め。接待茶屋跡までは国道1号線脇の歩道を下る。
接待茶屋跡から先は、山中城跡まで整備された石畳道や山道となる。
途中、明治天皇が休憩されたという場所からは、三島市街から伊豆半島、駿河湾が見渡せる。富士山が隠れたのは残念だが、この景色こそ、峠越え最高のご褒美だろう。