自然と名湯に恵まれた西伊豆土肥温泉へ

船原峠へと登る国道136号線をたどっていくと、車窓を流れるのは樹木に覆われ幾重にも重なる山々と、その間を縫うように流れる清冽な船原川の風景が続いている。まるで山深い里へと誘われていくようだが、峠の先には駿河湾が美しく輝いているに違いない。

太平洋の彼方から、気が遠くなるほどの時間を経て、日本列島と出会った伊豆半島。だから少し車を走らせただけで、このように自然がクルクルと表情を変える素晴らしい景観と遭遇できる。特に西海岸は東海岸と比べると、ダイナミックな自然の表情とあちらこちらで出会えるのだ。

峠を越えるトンネルを抜けると、道は伊豆西海岸に向かって下っていく。陽光を受けてキラキラと白銀に輝く駿河湾を遠目に見ながら、快適な山道を下りきったところにあるのが土肥の町だ。

ここは戦国から江戸時代にかけて、金山開発で賑わっていた。温泉はその副産物として、慶長16年(1611)に湧き出した。以来、西伊豆で最も歴史ある名湯として、多くの人たちから親しまれている。

海辺に並ぶ大規模温泉旅館を横目に、さらに国道を南下。人家もまばらになり、西伊豆らしい鄙びた雰囲気に包まれてきた頃、今日の目的地である宿「ふたりとわに縁」の案内板が目に入る。特別な日にふさわしい、静かな環境というのが実に素敵だ。

そして宿のネーミングも、今日のこの日にピッタリだったので、妻も私も迷わずここに決めた。それは結婚30周年の真珠婚を迎えた今年、“ふたり”新たな気持ちで“永遠に”を確認することだ。

国道から少し坂を登った場所に、立派な宿の門があった。車でそのまま門をくぐると、目隠しの壁を回り込むようにエントランスに入る。左手には離れ形式の部屋がずらりと並び、正面に少し大きな建物が見える。そこがロビー棟であろう。一見すると、まるで平屋建ての豪邸のようだ。車を停め、その建物の前に立つと、目の前には重々しい扉がある。

その時、妻が「扉の向こう側に、素敵な時間が待っていそうね」とつぶやいた。それこそが今回の旅の目的なのである。この期待に宿がどう応えてくれるのか。抑えきれないときめきと共に、宿への第一歩を踏み出した。

くつろぐための心遣いを随所に散りばめた客室

ロビーで待っていたのは、抹茶とオリジナルのロールケーキ。このウェルカムサービスに、早くも心と胃袋をつかまれる。口に運んだ瞬間、まるで淡雪のように溶けてしまう。上品な甘さに鼻孔をくすぐられてしまうケーキに、妻は「これは買って帰れないのかしら」と早くもご満悦。しかし残念なことにお土産用はないとのこと…。

部屋は全て離れ形式で5タイプ、10部屋が用意されている。どの部屋にも粋な名前が付けられていて、私たちが案内されたのは「よりそうふたり」。何だか赤面してしまいそうなネーミングだが「30年前に戻ったみたいね」と、妻はまんざらでもなさそう。

広々とした部屋は手前に畳が敷かれ、正面の奥にソファ、左手奥にはベッドが置かれている。広いのは部屋だけでなく、テラスも籐のテーブルとチェアがあり、広々としている。海を眺めながら何時間でもくつろげそうだ。海越しに富士山も望める。さらに籐製のカウチソファも用意されていて、湯上がりもテラスを活用できそう。

温泉はそのカウチソファが置かれているテラスのすぐ横に、檜風呂が半露天スタイルで用意されている。西伊豆の冬は海からの風が強いため、景色を楽しみながらの入浴はこのスタイルがベストだったようだ。

カルシウム・ナトリウム硫酸塩塩化物泉の湯は無色透明。強い匂いもないので、刺激が苦手な妻にも優しい。しかも肌がツルツルになるうえ、湯冷めしにくいので心身ともに癒される。湯上がりには選べる浴衣に、少女のように心弾ませていた妻。美しい夕陽を期待したのだろうか。茜色がベースの、いつになくカラフルなものを選んでいた。選べる浴衣は女性だけの特別なサービスだ。

夕食は別棟のダイニングでいただくのだが、そこへ向かう途中の「結てらす」で、落日に染まった駿河湾と富士山という、素晴らしい景色と出会えた。食事前にしばしソファで景色を愛でていると、コーヒーが運ばれてきた。こうした何気ないサービスも嬉しい。

静岡からの贈り物、山海の幸が集結

夕食は乾杯のお酒から始まり、出汁のゼリーの上に新鮮野菜を盛った料理や、焼津のタタミイワシとカマンベールチーズを合わせた一皿など、地のものをふんだんに使った前菜へと続く。見た目も美しい前菜の皿にはマグロ節が敷かれていて、どの料理にも合い、味のアクセントにもなる。

続くお造りを飾っていたのは、マダイやキンメダイ、ノドグロ、アカムツ、伊勢エビなど、駿河湾の恵みの数々。珍しいのはアブラゴソだ。これは深海性の高級魚で、ヒウチダイとも呼ばれる。身はしっかりとしていて脂が乗ってまろやかな味わいが口に広がる。それでいて脂はさらりとしているので、老若男女問わずに楽しめるだろう。

地海鮮鍋も、アカザエビという駿河湾の高級食材が惜し気もなく使われていた。地元の人も甘さと旨味はエビの中でも随一と太鼓判を押すほど。「こんなにいただいていいのかな」と微笑む妻。だがメインの静岡育ちの和牛の鉄板焼きも、きれいに平らげていた。

一緒になって30年。こんなに嬉しそうにはしゃぐ妻を久しぶりに見た。夫妻の新たな思い出の1ページが刻まれた温泉旅であった。

文/野田伊豆守 撮影/関野 温