大人だけが許された秘密の隠れ宿

気ぜわしい日常生活の中で、妻とのゆったりした静かな満ち足りた時間は作りにくい。そのひと時を過ごそうと午前中で仕事を終わらせ車を飛ばした。

目的の宿「山屋蒼月」は都心から2時間ほどと近いため、私たちの希望が満たされるのかいぶからないではなかったが、宿の選択に間違いのないことに気づくまで、さほど時間はかからなかった。

前橋市街から赤城山方面への坂道を行くと、鬱蒼とした木々に包まれた高所となり、その一角に宿はあった。旅館然とした派手やかな主張のない、周囲の景観に溶け込んだ佇まいが好ましい。

しかし、地味なわけではない。屋根付きの渡り廊下のようなエントランスに、こまやかなもてなしの心が込められている気がした。すると歩きながら妻がこう言ったのだ。

「大人のための旅館って感じね」
その先のロビーとつながっているのが3階建てで8部屋からなる本館。また、ロビーから見渡せる緑豊かな約5千坪の敷地には、大浴場の湯殿、4部屋ずつの別館と別邸(それぞれ露天風呂付き客室)、3部屋からなる露天風呂付き離れの棟が点在している。

つまり、客室は19部屋。この時点ですでに感じていたのは静けさだった。事前に調べたのでわかってはいたが、宿主の手島弥寿也さんの説明でさらに理解を深めることになる。

歴史をさかのぼれば昭和40年(1965)に創業した老舗旅館。長らく群馬県内の客が多い宿として営業してきたが、三代目の弥寿也さんが装いの違う旅館へと生まれ変わらせた。

「旅行手段のひとつとしての宿ではなく、山屋蒼月に泊まることを目的とした旅を堪能していただきたかったのです。令和元年(2019)5月までに本館、別館、別邸などのリニューアル工事を済ませ、階段を極力少なくし、通路をスロープでつなぎました。

数々のもてなしの心を実感。客の9割が群馬県外から

また13歳以下のお子さんの宿泊をお断りしております。静かに過ごしていただける大人のための旅館でありたいという願いからです。現在、お客さまの9割が県外からです」

私たちが泊まった部屋は、漆と名付けられた本館3階にあるモダンな部屋だった。居間と寝室、半露天風呂からなり、居間には日本の伝統色である漆黒をモチーフとした、漆塗り作家の作成による本漆塗りのパネルが金色の壁に映えている。

ほかに紅や櫻、藍などの部屋があるが、それぞれ名前をモチーフにした工夫がなされているのだろう。漆の部屋の窓からも、半露天風呂からも、庭園や沼、その先に広がる関東平野の風景が一望できる。晴れた日には、スカイツリーまで見えるそうだ。

半露天風呂の温泉は、宿の敷地内に湧く2つの源泉がほど良く混じり合ったかけ流しである。さっそく湯に浸かると、さほど熱くない私好みの湯加減で、これなら長湯が可能だと妻にも入るよう声をかけたのだった。

湯船に浸かり、遠くの風景を見やりながら「こんな静かな時間を過ごしたのはいつ以来かしらね」と妻が笑った。

さて、宿の“探検”に出かけよう。漆の間のひとつ下の2階で見つけたのはライブラリーラウンジである。そこには本が用意されていて、コーヒーや紅茶など好みに合わせて自由に楽しむことができたが、その味わいに驚かされた。とても美味しいのだ。おそらく厳選された銘茶を使っているに違いないと、また話し合った。

そして、ロビーを通り抜け、庭園へ出て、各棟をゆるやかなスロープで結ぶ渡り廊下をそろりそろりと歩いていく。庭園には池がしつらえられていてコイがゆったりと泳いでいた。

自然の小川もあって、そのせせらぎに耳を傾ける。庭園の先にある池まで足を運び、展望台からの風景も愛でた。そうした散策を楽しんでいると、さすがに風が冷たい。それでも心地良さが感じられるのは、やはり大人のための宿だからだろうか。

少し体の冷えを感じはじめた時にありがたいのが、大浴場が庭園の一角にあることだ。まず檜造りの香り高い内風呂に入り、奥の川の流れを引き入れた庭園露天風呂に浸かった。傍らには木々が茂っていて、これらの緑は季節の移ろいの中でどんな変化を楽しませてくれるのだろうかと、ふと思ったりしたのだった。

そうこうしているうちに食事の時間となる。やたらと時の過ぎるのを早く感じるのは、心も体も満たされているからだろう。食事処に行くと、ほどなく料理が運ばれてきた。

しかも、温かい料理を食してほしいという思いから、一品一品運ばれてくる。他の個室からはかすかに客の声は聞こえたものの、耳障りではない。ふと、お品書きを見ると山中料理とあって、魚介の刺身などの献立が書かれていない。

聞けば、上州の旬の素材を使った美味しい料理を味わってほしいという思いからなのだという。いざ、山中料理を味わおうと箸を付けると、魚介のないことに納得した。ニジマスの塩焼、シメジや松茸などの茸の土瓶蒸し、上州牛と秋野菜の重ね焼、手作りコンニャクの刺身など、全てがとても美味しく、素材の組み合わせも絶妙だ。

向かいに座る妻を見ると、ぱくぱくと頬張っている。「よほど腕のいい料理人なんでしょうね」と感心する妻。近くの農家の人がその日収穫した野菜を持ってきてくれることもあるという。料理の腕と素材の良さが重なると、これほど美味しい料理が生まれるものかと驚かされた。しかも宿泊料は1万8150円からと破格である。

手島さんが山屋蒼月という宿名の由来について語った言葉を思い出した。「赤城の月は、特に冬の季節に青々と光り輝き、敷地をも青く染めることがあります。この情景を込めての命名です」

料理の妙と温泉の心地良さ、あくまでも静かな大人の宿の佇まい、そしてその神秘的な現象にまつわる話が、私たちにかけがえのない一夜を与えてくれた。

文/相庭泰志 撮影/遠藤 純