館内すべての空間から滲み出る、芸術家の息遣いを十二分に味わう

その日、珍しく妻からメールが届いた。そこには「今度、箱根旅行に行かない?」という文面が書かれてある。私に拒む理由などないので承諾し、そのまますっかり忘れてしまう。

次の週、帰宅すると食卓の上に予約シートが置かれていて、そこには「星野リゾート界 仙石原」と書かれてあった。

秋も深まってきたある週末の午後、妻とふたり愛車を走らせ箱根へと向かう。仙石原は東名高速の御殿場ICを降りれば、約20分の距離だ。東京からのアクセスがとてもいいわりに、変化に富んだ美しい自然に恵まれているので、古くから保養地として人気が高い。

仙石原は箱根火山カルデラの北部に位置し、多くの施設がカルデラの底だったエリアに集中している。しかし、目指す「星野リゾート 界 仙石原」は山の中腹に位置する。到着が夕刻前だったから気づかなかったが、眼下には素晴らしい景色が広がっていたようだ。

館内の随所でアートを見て感じて、体験できる

仙石原には1990年代から2000年代にかけて、ポーラ美術館をはじめ箱根ラリック美術館、箱根ガラスの森などの美術館が建てられている。私は「目的は美術館巡りか」と思った。私たちの出逢いも美術館であったことをふと思い出した。確か偶然同じ絵に惹かれ、会話を交わしたと思う。

しかし「界 仙石原」へ到着してみると、この宿こそが彼女の目的であったと気づかされた。チェックインの説明の際に「ここは仙石原の自然を満喫できるアトリエ温泉旅館」と説明されたからだ。

それは国内外のアーティスト12名が開業前の界 仙石原に実際に宿泊し、箱根で受けたインスピレーションをもとに創作活動を行い、そこで完成した作品が客室や館内に展示されているらしい。言ってみれば宿全体が美術館なのである。

さらに12名のアーティスト以外にも、一流の仕事人たちが館内に様々な作品を提供。例えばエントランス棟の壁を飾っているのは、土の魅力を世界に発信し続ける左官職人、久住直生氏の作品である。チェックイン時に渡されるルームキーに付けられているキーホルダーは、デザイナーで美術作家の寺山紀彦氏の作品なのだ。

芸術は感じるだけではない。ここでは「ご当地楽」と呼ばれる、誰でも気軽に参加できるアート体験を開催している。それは型染作家の小倉充子氏によるオリジナル手拭いに、絵付けや色付けを楽しむこと。

用意されているのは全部で6種類。何も描かれていない真っ白な手拭いのほか、小倉氏による箱根の宿場や名物、仙石原の野鳥や野草が描かれていて、そこに色をつけるだけのものもある。

久しぶりに妻と肩を並べるのは何だか照れくさいな、そんな事を考えていたら、妻が「私たちの部屋に飾ってあった絵、あなたはどう感じた?」と聞いてきた。

ああ、やっぱり美術館で出逢った、あの日の事を覚えているんだ。「うん、色遣いが秀逸だね」「そう、私は余白が素晴らしいと思ったのよ」。

それからは、館内の随所にあるアートついてあれこれと話題が膨らみ、時間を忘れてしまった。

趣向を凝らした食事は五感の全てを刺激する

アート体験の後、食事前に温泉へ足を運んだ。全ての部屋に露天風呂が付いているだけでなく、エントランス棟の向かいには男女別の大浴場もある。日頃の疲れを癒すには、大きな風呂が一番なので、まずはこちらを楽しんだ。

大浴場の内風呂は「あつ湯」と「ぬる湯」という2つの浴槽がある。まず酸性の温泉、あつ湯で温まった後、ぬる湯に浸かると肌を落ち着かせる効果があるという。そして色づき始めた庭の紅葉を愛でながら、露天風呂も堪能した。

芸術と温泉を心ゆくまで享受すると、さすがに腹も減る。それだけに、ワクワクしながら半個室仕立ての食事処へ足を運んだ。するとここでも、アトリエ温泉旅館というコンセプトを十二分に楽しませてくれる。趣向を凝らした器や提供方法、その美味しさにふたり揃って唸らされてしまったのだ。

先付はガラスの蓋を持ち上げた瞬間、まるで大湧谷の噴煙のような煙が立ち昇る「サーモンの瞬間燻製」。軽くスモークされたサーモンとフルーツが、口の中で絶妙のハーモニーを奏でる。

次に目を奪われたのが、八寸やお造りなどが盛られた「宝楽盛り」だ。錫の籠は毎日形が変わるユニークなもの。絵筆箱に見立てた器には、その日に仕入れた新鮮な魚介が並ぶ。

極めつきは冬の特別会席に用意されている台の物「雲丹と牛のすき鍋」。卵の代わりに、雲丹をふんだんに入れて仕上げる、何とも贅沢な一品。

これが美味しくないはずがない。翌朝の朝食も山海の名物が揃えられ、朝からお腹が嬉しい悲鳴を上げる。箱根は美味の交差点といわれるのも納得した。

結婚して子育てに追われ、いつの間にかお互い話すこともなくなり、空気のような存在となっていた。しかし星野リゾートへの旅が、夫婦の第二幕の始まりとなった。

文/野田伊豆守 撮影/関野 温