美しい障子堀や畝堀など一味違う山城を歩く
霊峰・富士の姿を背後に映し、緑の芝に覆われた畝が幾重にも連なっている。幾何学的で不思議なその光景はたとえるならワッフルのような形状で、ツツジの植栽なども色を添えてのどかな雰囲気だ。
しかしながらそれは、戦国の世には小田原城を本拠としていた後北条氏(小田原北条氏)が西方防衛の要として築いた山城なのだ。
今は山中城跡公園として整備されているので、散歩がてら歩くことができる。ハイライトの西の丸へは、大手口だったとされる旧国道1号線の駐車場から歩いて10分ほど。まずは、歩く前に駐車場近くの山中城跡案内所に寄ろう。情報収集のほか、軽食も摂れる。
緑に囲まれた気持ちの良い道を緩やかに登った後、「障子堀」「畝堀」が見えてくる。一味違う山城の美しくも堅牢な防御技術の見事さに目を奪われるだろう。
富士山や駿河湾を一望する圧巻の山城を散策する
武田氏や今川氏との軍事緊張を見据え、標高580mのこの地に山城を構えたのは永禄年間(1558〜)。
その後、豊臣秀吉との確執が高まると、秀吉の小田原城攻めに備え、天正15年(1587)頃から最前線の軍事拠点として堀や出丸などの大改修、城郭の拡張などが行われた。箱根外輪山から南西方に延びる尾根と、V字状渓谷を成す2つの河川を天然の堀として利用。
なかでも特徴的なのが先出のワッフル状と形容した「障子堀」「畝堀」と呼ばれる空堀だ。これはなだれ込む敵の進軍を阻止する防御設備で、関東ローム層の滑りやすい土質は、一度落ちたら這い上がれない蟻地獄のような仕掛けだったという。
天正18年(1590)3月、山中城は豊臣軍7万の襲来を受けて落城する。山中城はそのまま地中に埋もれてしまうが、皮肉にもその結果ゆえ、北条式の防御技術が今に遺ることになった。
昭和48年(1973)から発掘調査が行われ、大規模な障子堀や畝堀、門柱跡や木橋の跡など数々の山城の様相が見られるようになった。
【こんな所も見どころ!】
兵どもの夢の跡から江戸時代へ。箱根旧街道を歩き流れゆく時を楽しむ
小田原宿から標高846mの箱根峠を越えて三島宿へと続く箱根旧街道。山中城はその中間地点にある。東海道は徳川幕府が整備した道なので、もちろん当時は街道があったわけではないが、戦国時代から江戸時代への時の流れを堪能したい。
山中城(やまなかじょう)
築城年:永禄年間(1558〜1570)
主な城主:松田氏