小田原征伐(おだわらせいばつ)
開戦年:天正18年(1590)
豊臣秀吉VS北条氏政・氏直
総延長9kmもある惣構(そうがま)え 今も街中に遺構が残る
神奈川県の西部に位置する人口約19万人の地方都市、それが小田原市である。南西部は箱根の山々に続く山地が連なり、東部には大磯丘陵がある。そして市の中央部には酒匂(さかわ)川が南北に貫き、南部は相模湾に面している。
江戸時代に置かれた小田原藩は東国の要衝として重要視され、徳川家譜代大名が治めていた。現在、町のシンボルとなっている総石垣の小田原城が登場したのは、寛永9年(1632)に始められた大改修後だ。戦国時代、北条氏が治めていた頃は、天守こそないが現在よりはるかに巨大な城であった。
上杉謙信、武田信玄という、戦国時代最強と謳(うた)われた両雄でも攻め落とすことができなかった難攻不落の小田原城は、北条氏三代当主・氏康(うじやす)の時代に出来上がった。
さらに豊臣秀吉との対立が決定的になった五代・氏直の時代、小田原の町全体を総延長9kmにも及ぶ土塁と空堀で囲み、惣構え(城だけでなく城下町まで堀で囲んだ造り)とした。これは後の大坂城の惣構えを凌ぐ規模であった。
10mを超える高低差のある大堀切が今も城の北西に健在
そんな壮大な土塁や空堀は、徳川家康が自ら撤去させたが、今もあちらこちらに遺構が残る。また天守がある近世城郭部分は、北条氏時代は居館部分であった。主郭は天守の北西部にある八幡山で、現在も遺構の一部が見られる。小田原城は中世と近世の城郭遺構を同時に見られる珍しい城なのだ。
小田原で歴史散歩を楽しむなら、この惣構えの遺構探しが断然面白い。街中に突然、草に覆われた小山のような土塁が出現したり、雑木林の中で驚くほど深い堀に遭遇したりするからだ。その規模の大きさを体感すれば、秀吉が小田原征伐の際、無理に力攻めしなかった事もうなずけるであろう。
城へ直登する太閤道では素晴らしい景色に迎えられる
小田原征伐に思いを馳せつつ惣構えと共に巡りたいのが、秀吉が本陣とした石垣山城だ。先も述べたように、秀吉は小田原城を大軍で取り囲み、長期戦の構えを見せた。しかも決死の思いで籠城を続ける北条方を尻目に、包囲軍は連日歌舞音曲三昧(おんぎょくざんまい)であったとか。
さらに北条方の度肝を抜いたのが、小田原城を見下ろす西方の笠懸山山頂に、突如として出現した総石垣の城であった。その早さに石垣山一夜城と呼ばれているが、実際にはのべ4万人の人員と、約80日という時間を費やして築かれている。工事期間中は小田原城側の斜面の樹木を残し、完成と共に一気に伐採したため、一夜にして完成したように見せたのだ。
眼下に小田原市街と相模湾山頂まで一直線の道をたどる
この城は東国で初めての総石垣造りの城であったのも凄い。以来、笠懸山は石垣山と呼ばれるようになったほど。この城に訪れるには、海蔵寺道と呼ばれるクルマで楽に登れる道が一般的。だがハイキングも楽しむならば、早川駅付近からほぼ一直線に登る道がお勧めだ。こちらは海から荷揚げされた物資を素早く城へ運び上げるために秀吉軍がつけた道で、秀吉にちなみ太閤道と呼ばれている。
かなり急な登りでけっこうきついので、焦らず登っていこう。駅から15分ほど歩いて振り返ると、新幹線の線路や小田原漁港が遥か下方に見え、さらにその先には相模湾が煌めいてる。
到達した山頂の城跡では、予想を遥かに超える見事な石垣群に度肝を抜かれる。関東大震災で倒壊した部分はあるが、それでも二の丸や井戸曲輪(くるわ)の石垣などは見応え十分。
本丸展望台からは小田原市街が一望できる。この場所を選んだ秀吉の慧眼(けいがん)は脱帽ものだ。
【こんな所も見どころ!】後北条氏の始祖・戦国の梟雄(きょうゆう)北条早雲像も忘れずに!
小田原駅の西口を出ると、目の前のロータリーには後北条氏(鎌倉時代の北条氏と差別化する呼び名)初代の北條(像の文字通り)早雲の騎馬像が立つ。小田原城を奪取した際、牛の角に松明を付け、大軍に見せかけた「火牛の計」がモチーフだ。