長篠の戦い(ながしののたたかい)
開戦年:天正3年(1575)
織田信長・徳川家康VS武田勝頼

戦史に残る先進的な戦いの舞台は意外に狭かった

天正3年(1575)5月21日、織田信長・徳川家康の連合軍3万8000と、武田勝頼(かつより)率いる1万5000が激突した長篠の戦いは、織田軍が用いた新戦術、鉄砲の三段撃ちで知られている。黒澤明監督の名作『影武者』のラストでも、迫力満点に描かれた場面だ。

複雑な曲線を描く内堀。無事に登ることは不可能と思われる。

豪快な鉄砲の三段撃ちや、映画で描かれた武田騎馬隊の突撃シーンから、戦場となった場所は広大な平原をイメージしている人も多いだろう。実際に戦いの舞台となったのは現在の愛知県新城(しんしろ)市で、JR飯田線三河東郷駅からほど近い、設楽原(したらがはら)と呼ばれる平地なのだ。

設楽原古戦場の中央付近にぽつんとある丸山。織田方の佐久間信盛と武田方の馬場信房が争奪戦を繰り広げた。

平地といっても、そこは東西にある舌状台地に挟まれ、中央には連吾川という小川が流れる、広い平原とはほど遠い光景の場所である。

戦国時代の激戦地に響く子どもたちの歓声

左手に織田・徳川軍が設置したとされる馬防柵が再現されている。右端が連吾川。

東西の舌状台地はどちらも木が生い茂って小山のようになっていて、東に武田軍、西には織田・徳川連合軍が陣を敷いた。今はその場所に案内板などが立てられているので、オリエンテーリング気分で巡ってみるのも面白い。

徳川家康の一隊が布陣した断上山古墳。戦場一帯が見渡せる。

真ん中に広がる主戦場は、東西の幅はひと目で見渡せる。だが南北の奥行きは深く、特筆するものがあるわけではないが、緑あふれる季節に訪れると素朴な日本の里山風景に触れることができ、誰もが癒されるだろう。真ん中を流れる連吾川は護岸されてしまったが、幅が1.5mほどの流れ自体は清冽(せいれつ)で、涼やかな気分に浸れる。

写真中央奥の光が当たっている徳川家康の陣に向かい合う場所にある山県昌景の供養塔。この戦いで武田軍は信玄以来の重臣たちの多くを失い、急速に弱体化した。
設楽原の戦いの資料や鉄砲が展示された新城市設楽原歴史資料館。

忘れてはならないのが、主戦場となった設楽原から北東に約4kmの場所にある長篠城だ。この戦いの発端となった城で、南は豊川、東は宇連(うれ)川によって削られた河岸段丘の上に立地する要害だ。平地となっている西側は碁石川という小さな川を内堀とし、その外側に曲輪(くるわ)を設けている。北側は人工の堀と土塁が守りを固めている。

豊川本流に架かる橋から城を望む。左が豊川上流、右は宇連川。

今でもそれら見事な造形物が目にできる。豊川に架かる橋から眺めると、城が断崖の上に立地していることがよくわかる。自然を味方にする先人の知恵も学べるのだ。

城跡には長篠城址史跡保存館が建っている。城内から出土した貴重な現物や、参戦武将の子孫に伝わる火縄銃などを展示。
城跡の南側を横切るJR飯田線の線路。線路下には野牛曲輪がある。
大通寺には武田方の最前線が置かれた。

【こんな所も見どころ!】新東名高速のPAから信長の本陣跡に登れる

新東名高速道路を名古屋方面に向かっていた場合は「長篠設楽原PA」に立ち寄りたい。ここのモチーフは合戦で、下り線側は織田・徳川軍がコンセプト。エリア内から信長が本陣を置いた茶臼山に登れる。上り線側は武田方で信長本陣には行けない。