江の川の流れが三江線の旅を彩った

この区間には中国地方で最大の河川となる江の川が流れ、古来それを活用した水運による流通があり、沿線では鉄道に対する期待もあった。かくして大正時代に計画が具体化、北側から建設を始め、昭和5年(1930)には江津(当時は石見江津)~川戸間で運転を開始した。その後、川戸の先を延伸すると共に南側の建設に着工。しかし浜原まで達したところで日本は戦時体制へと進み、工事は中断されてしまった。

戦後、南側から工事を再開、三次~式敷(しきじき)間が開通したところで三江南線・三江北線と線名が分かれる。その後も延伸を重ね、昭和50年(1975)8月31日に江津~三次間108.1kmが全通、線名も三江線に改められたのである。

晩年のJR三江線はキハ120形による運転だった(2018.3/口羽〜江平間)。

それからほどなく三江線に乗った。三江南線・三江北線とも足を踏み入れたことはなく、初めて見る車窓は新鮮だった。この時は江津から三次へ向かったが、車窓に続く江の川が印象的だった。川沿いを走る鉄道は全国各地にあるが、三江線ほどひとつの川を律儀にたどる路線は珍しく、渓相の変化をたっぷりと味わえた。

三江線の旅は江の川を愛でる旅だった(香淀~作木口間)(2018.3)。

江の川鉄道の愛称で親しまれた清流を望むローカル線

江津から1時間半ほどで浜原に到着する。三江線のほぼ中間地点、全通まで三江北線の終点となっていたところで、全通後も運行上の拠点とされていた。実際、当駅発着の区間列車も設定されており、ダイヤ上からもそれを感じさせた。

びっくりしたのは浜原を出発したところで列車の速度がぐんと速くなったことだ。

じつは最後に建設された浜原~口羽間は時代によって変化してきた新しい鉄道建設規格に準じて仕上げられていた。最高時速も江津~浜原間の時速65kmから時速95kmへとアップ。わずか30kmの違いだが、ずいぶん速く感じたのである。

なお、この新線区間にあった宇都井駅は、高架区間にホームを設置、乗降には地上から20mもの高さを階段で上り下りするものだった。汽車旅ファンには有名で一度降りてみたいとは思ったものの、残念ながらその機会は得られなかった。

この高速運転は口羽までで、その先は終点の三次まで再び時速65kmでトロトロ走ることになった。

三江線の多くの区間に急カーブが連続、速度も65km/hに制限されていた。

輸送密度は端から3桁 鉄道としての活用は困難だった

最初の乗車はちょうど夕方の下校時間帯だったこともあり、車内に通学生の姿もあった。もっとも乗客数は少なく、キハ20+キハ23という2両編成だったが、気動車1両の単行運転でも間に合いそうに思った。

三江線で最後に開通した区間にある石見都賀駅。待合室だけのシンプルなスタイルだった。(2018.3)

実際、開通当時の輸送密度は640人で、全通から10年後に行われた“国鉄再建法”による振り分けでは廃止対象路線とされてしまう。しかし、代替え道路が未整備ということで辛くも存続することになった。

木路原~岩見川本間にて(2018.3)。

こうして三江線は国鉄からJR西日本に引き継がれたが、利用状況に改善はなかった。21世紀に入ると、輸送密度はついに2桁に落ち込む。さらに追い打ちをかけるように自然災害にも見舞われた。三江線は平成18年(2006)と平成25年(2013)に豪雨で橋梁流出も含む大規模な被害も受けている。

三江線は山陰本線江津駅の3番線から発着していた(2018.3)。

しかし、JR西日本は存続の方針を崩さず、どちらの災害も1年近い歳月をかけて復旧。さらに区間によっては1日4往復しか運転されず、これが三江線の利用を阻害しているという声も出た。そこで社会実験としてバスも活用して2倍近い増便を実施、利用増を模索したが、残念ながら芳しい結果は得られなかった。

川戸駅にて(2018.3)。
石見都賀駅。晩年は20時49分発の浜原行きが最終列車となっていた(2018.3)
三江線では最も早い昭和5年に開業した川平駅。駅舎やベンチなど風格を感じさせた(2018.3)。

こうした状況のもと、三江線はついに鉄道としての存続を断念することになった。平成30年(2018)3月31日で運行を終了、翌日付で廃止、代替え交通に切り替わったのだ。

川戸駅に寄せられたメッセージ。廃止直前の2018年1月に大雪で運休。「最後まで走れはしれ~」と応援も送られた(2018.3)。
長谷駅にて(2018.3)。
廃止されるJR三江線は、少女の想い出に刻まれただろうか(川戸駅)。

写真/遠藤 純 文/松本典久

JR三江線