惜しまれながらも消えた屋代線の姿をもう一度

設立の目的は千曲川東岸地域を国鉄と接続し、輸送力を強化することで産業を活性化することであった。そして大正11年(1922)6月10日、屋代と須坂間が開業した。

桜の名所としても知られていた木島線赤岩駅と2500系電車。

河東鉄道はその後も延伸を続け、翌大正12年3月26日に須坂と信州中野間、大正14年には信州中野と木島の間が開業した。同年、県の中心地である長野との接続を図るために、河東鉄道と同じ社長の元、新たに長野電気鉄道が設立される。

そして大正15年(1926)に、長野電気鉄道が権堂と須坂で開業。同年、両社は合併し、長野電鉄となった。同時に権堂と須坂の間の路線を長野線、屋代から須坂と信州中野を経由し、木島までの路線を河東線とした。その後、信州中野から湯田中までが延伸。さらに権堂と長野間も開業した。その後も、手広く延伸する構想を抱いていたが、実現することはないまま終戦を迎えた。

屋代線の信濃川田駅。味のある木造駅舎はロケにも使われた。

戦後、長野電鉄はいち早くスキーブームの先鞭となり、多くの観光客で賑わった。だが移動手段の主役が自家用車へと変わると、もともと沿線人口が少なかった河東線の、信州中野~木島間(通称木島線)の廃線が決定。平成14年(2002)3月30日、31日に「ありがとう・さようならイベント」が実施された。残された河東線の信州中野〜須坂〜屋代間のうち、須坂〜屋代間は屋代線と名称変更される。

屋代線の綿内〜若穂間を走るモハ1500形。1948年から54年にかけて製造された電車。

屋代線は真田家のお膝元である松代を通り、周辺には牧歌的風景が広がっていた、とてものどかな路線であった。だが周辺の道路整備が拡充したことなどによる利用客の減少で、県と沿線3市に資金援助を要請せざるを得ない状況にあった。

屋代線の綿内駅。

平成22年(2010)から、サイクルトレインやパーク&ランドといった社会実験を行ったが、翌年には路線廃止と代替バス運行が決定する。そして平成24年(2012)4月1日、開業90年という節目の年に屋代~須坂間は姿を消してしまった。

木島線四ヶ郷~赤岩間を走る車両。

通勤・通学の足と観光輸送を両立した長野電鉄長野線は運行中!

昭和59年(1984)撮影

河東線が健在だった頃の長野線は、長野から須坂までであった。須坂と信州中野は河東線、信州中野と湯田中間は山の内線と呼称されていたのだ。だが信州中野と木島間が廃線となった後、長野から湯田中を長野線、須坂と屋代間は屋代線に呼称変更されていた。そして屋代線がなくなった今、長野電鉄唯一の路線となった。朝夕には通勤・通学の足を確保するため、5分から20分という高頻度運転を実施している。加えて、湯田中温泉や渋温泉、地獄谷、志賀高原といった観光地へのアクセス路線としての役割も担って、今も元気に運行中である。

写真/遠藤 純 文/野田伊豆守

長野電鉄