無色透明の「命の水」が琥珀色の深みある飲料に
スコットランドは英国を構成する4地域のひとつで、人口・面積ともイングランドに次ぐ規模を持つ。グレートブリテン島の北部3分の1を占め、首都のエジンバラは英国の第2の都市である。
歴史的には、スコットランドとイングランドは1603年、両国が同じ国王ジェームズ1世(1566〜1625 ※スコットランド王としてはジェームズ6世)を戴いた。そして1707年にイングランド王国に併合される形でグレートブリテン王国となり、独立国家ではなくなったが、こうした歴史の流れのなか、スコットランドのウイスキー、つまり「スコッチ」は発展を続けてきた。
スコッチ造りが一体いつから始まったのか。残念ながら記録が乏しいため明らかではない。そもそも、エジプトで行われていたビール造りの製法や蒸留器が、具体的にいつどうやってスコットランドに伝わったのかはわからないのである。
初期のウイスキーは、大衆的な飲み物というものではなかった。なぜなら薬品とみなされていたからだ。農家などで味を好んで造る人がいたとしても、それは個人の嗜好品の域を出ず、記録に残す類いのものではなかった。だからこそ文献的な記録に乏しいのかもしれない。
スコッチ・ウイスキーが文献に登場したのはジェームズ4世の時代、1494年が最初である。英国王室財務省の記録に「修道士ジョン・コーに8ボル(約500kg)のモルト(麦芽)を与え、アクアヴィテを造らしむ」という記録があり、遅くともその頃には大麦麦芽を原料とした蒸留酒が造られていたことがわかるのみである。
このアクアヴィテとは、醸造酒から蒸留器を用いて造られた「命の水」のことを指している。これをゲール語であらわすと「ウシュクベーハ」となり、訛って「ウイスキー」の英語が生まれたという。
17世紀初頭の1608年、英国王ジェームズ1世が、北アイルランド、アントリムの領主に蒸留免許を与えたという記録がある。少し遅れて1689年、スコッチ最古の蒸溜所ができた。蒸留技術の発達により、いよいよ製造が盛んになっていったと推測できるが、今のウイスキーとはだいぶイメージが違ったようである。その頃のウイスキーは、今とは違い、無色透明だった。熟成樽もなかったから、蒸留したばかりの荒い風味であっただろう。
木樽に詰め熟成すると琥珀色になり、風味がまろやかになるとわかったのは18世紀初頭、ウイスキーが密造されるようになってからのこと。それまでの200年ばかりは、透明なウイスキーが飲まれていたと考えるとなかなか面白い。
皮肉にも密造から生まれたスコッチの特色と味わい
なぜウイスキーは密造されるようになったのか。それは17世紀から19世紀、非常に重い酒税がかけられていたからだ。イングランド政府は、フランスとの戦争の軍費確保のため、スコットランドで造られるウイスキー税をあてにしたのである。しかも私的な製造は禁止され、公式の製造所以外、ウイスキーの製造・運搬道具は押収された。そこで生産者は北部のハイランド地方の山中に逃れ、ひっそりとウイスキーを製造した。
腕のいい生産者がこぞって密造に走ったこともあり、ついには正規業者が造るウイスキーよりも、密造業者の造るウイスキーのほうが、はるかに美味しく品質が良いという事態になった。
密造業者が利用したのは、良質の大麦、山奥の澄んだ清水である。そして大麦麦芽を乾燥させるのに、手近に埋もれているピート(泥炭)を燃料として使い、できたウイスキーをシェリーの空き樽に保存した。役人にばれずにウイスキーを貯蔵しておいたり、運んだりするのに便利だったからだが、実はこれが幸いしたのである。
樽の成分を吸収した琥珀色の液体、ピートを焚くことによるスモーキーな香り、まろやかで深みのある味わいが、図らずも密造の副産物として確立した。
原料と製法を見ても密造業者のウイスキーのクオリティが高いのは必然であった。1823年、酒税法の改正により、ウイスキーの税率が引き下げられたことで密造時代は終わりに向かうが、これには英国王ジョージ4世(1762〜1830)が関係していたという説がある。
大酒飲みで知られたジョージ4世は、腕利きの密造業者ジョージ・スミス製造のウイスキー「ザ・グレンリベット」を絶賛し、愛飲していたからである。スミスの蒸溜所は1824年に政府公認第1号となるが、それには「王が好むものが密造酒であってはいけない」との計らいがあり、税率の引き下げもそれに伴うとみて良いだろう。
19世紀になると、スコットランドとイングランドの関係がより協力的となった。ヴィクトリア女王とアルバート公夫妻がスコットランド北方のハイランドにあるバルモラル城で夏休みを過ごし、スコッチを楽しむということもあった。近隣の蒸溜所に女王が訪れ「ロイヤル・ロッホナガー」が生まれた。大英帝国が世界に領域を広げていくと共に、スコッチも世界へ広まるのである。
聖アンデレとスコットランド国旗の関係とは?
スコットランドの国旗は青地に白の「セント・アンドリュー・クロス」と呼ばれる二本の直線が斜めに交差したX十字のもの。これはX字型の十字架にかけられて殉教したという十二使徒のひとりでセント・アンドリュー(聖アンデレ)を象徴する。最初に使ったのは西暦800年頃、フングス王とされている。
英国(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)略年表
紀元前5〜1世紀 | ケルト人が部族単位で定住 |
43年 | イギリス、ローマの属州となる |
410年 | ローマ軍、ブリタニアを去る |
449年 | アングロ・サクソン人、ブリタニア侵攻 |
597年 | 修道士アウグスティヌス、キリスト教布教開始 |
6~7世紀 | 7王国のゲルマン社会 |
8~9世紀 | デーン人(バイキング)の侵攻・侵略 |
829年 | イングランド王国成立 |
1066年 | ノルマンディ公ウィリアム、イングランドを征服(ノルマン王朝) |
1215年 | ジョン王、マグナカルタ(人民の自由・権利)を認める |
1339~1453年 | 英仏百年戦争 |
1348年 | ペスト大流行 |
1381年 | ワットタイラーの農民一揆 |
1455年~1485年 | ばら戦争 |
1707年 | スコットランド王国及びイングランド王国合併、グレートブリテン連合王国成立 |
1776年 | アメリカ13州独立、イギリスが植民地アメリカを失う |
1801年 | グレートブリテン及びアイルランド連合王国成立 |
1858年 | 日英修好通商条約締結 |
1902年~23年 | 日英同盟 |
1922年 | グレートブリテン及び北アイルランド連合王国へ改称(南アイルランドの分離) |
1952年 | エリザベス二世女王即位 |
1973年 | 拡大EC加盟 |
2020年 | EUから離脱 |
Q1.アクアヴィテ(生命の水)とは?
錬金術師たちが蒸留酒を見てラテン語で「アクアヴィテ(命の水)」と言ったことに由来。これをゲール語にしたものがウイスキーの呼び名になったとされる。この共用語が、各地の言語の発音に変わった。
Q2.ゲール語とは?
アイルランドは英語圏だが、ゲール語 (アイルランド語)と呼ばれる言語が憲法で第1公用語に規定され、英語は第2公用語。だがイングランド時代にゲール語は衰退し、現在も使う人は1%未満という。
Q3.スペイサイドとは?
ハイランド地方の東北部、ウイスキー蒸溜所が密集するスペイ川流域(スペイサイド)及びそこで作られるモルトウイスキー。密造時代には、1,000以上もの蒸溜所があったという(現在は50カ所以上)。
Q4.密造時代が終わったのは?
1823年に酒税法が改正され「グレンリベット蒸溜所」が政府公認第1号に。それから生産者は堂々とウイスキー製造ができるようになり、前年に1万4,000件もあった摘発数が1874年には6件に激減。
Q5.密造による恩恵とは?
腕利きの職人が山奥に潜んで製造したことにより、良質な麦と水を使用したこと、見つからないように樽に入れて貯蔵したことなどで、思わぬ形ながら現在知られるウイスキーの製法が確立した。
政府公認第1号グレンリベット蒸溜所とは?
「全てのシングルモルトはここから始まった」というキャッチで、19世紀に作られた「ザ・グレンリベット」は、スペイサイド・モルトの一種である。商品名が蒸溜所の名前になっており、この酒が国王ジョージ4世に好まれたことから、この蒸溜所は政府公認第1号の蔵になったという。
文◎上永哲矢
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