局長・近藤勇が慌ただしく湯治した温泉地とは?

局長・近藤勇と、副長・土方歳三

激動の幕末に活躍した新選組。京の治安を乱す不逞浪士を取りしまるために集った、腕に覚えのある若者たちの集団である。そんな彼らは、どんな生活を送っていたかというと……なかなかに、壮絶であったようだ。

男所帯の雑魚寝部屋は大変に汚く、食生活も貧相で栄養が偏っていたので病人が絶えず、診察に来た医師の松本良順をあきれさせるほど。良順は隊士たちに部屋を清潔にするよう言い含め、豚を飼育して食用とし、栄養をつけるようアドバイスした。

そんな状態だから、隊士らはロクに風呂にも入っていなかったのではないか。ましてや温泉など、京の街にあったわけでもないから、ますます無縁だったのではないかと思ってしまうが、ひとつだけ例外があった。局長の近藤勇(こんどう いさみ)に、一度だけ湯治の記録があるのだ。

 それは新選組が発足した翌年にあたる元治元年(1864年)2月4日。近藤勇は多摩の知人に「意外に多病と相成り」と、故郷への手紙に書くほど体調を崩していた。その手紙によれば、上司の松平容保(会津藩主)に面会したおり、彼の体調を気遣った容保から「なるへく温泉いたし候」(たまには温泉にでも行って湯治しなさい)とすすめられたという。

源泉の湯気たちこめる有馬の湯

 それを受けた近藤、馬で1日かけて湯治へ行ったという。残念すぎることに湯治先が記録に書かかれていないために、たしかなところは不明だが「馬で1日」という距感からすると、有馬温泉(兵庫県)ではなかろうか。有馬は平安時代から湯治場として名高く、京の公家・藤原定家(ふじわらの ていか)、豊臣秀吉がこよなく愛したことで知られていた。

 京都から有馬温泉までは約70km。現代だとクルマで高速道路を飛ばせば1時間ちょっとで着いてしまうが、当時ならば半日がかりだろう。

有馬温泉街

 近藤は有馬での湯治のひとときを、どう過ごしていたのだろうか。それも残念ながら記録にないが、ちょっとはのんびりできたのかと思いきや、そうでもなかった。「容保が京都守護職を辞め、軍事総裁へ転任」という知らせを飛脚便で受け、7~8日後には京へ戻ったからである。「おちおち、湯治もしておれん」という近藤の心の声が聴こえてきそうである。

副長・土方歳三が傷を癒したリハビリ先は、どこか?

 さてさて、その後、時代はめまぐるしく変動。1868年より薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と、旧幕府軍との間で戊辰戦争が起きた。新選組も旧幕府軍に属して戦い、歴史の表舞台も京都を離れ、やがては関東から東北へと移っていく。

 そんなさなかに、新選組副長・土方歳三(ひじかた としぞう)は宇都宮城の戦いで足首を撃たれ、立てないほどの重傷を負った。歳三は戦線を離脱し、会津の城下町にあった清水屋旅館に担ぎ込まれる。新選組の味方である会津藩士・秋月登之助が手配した格式の高い宿だ。この宿はもう現存せず、今は碑だけが建っている。

土方歳三が湯治した会津東山温泉

 ここで歳三は医師の治療を受けるが、7月中旬に戦線復帰するまで3ヵ月弱の療養生活を余儀なくされる。その療養が一段落して、歳三がリハビリのために通ったといわれているのが会津城下の南東にある東山温泉(福島県会津若松市)。当時は、今も温泉街の上手にある天寧寺の寺領に含まれていたことから「天寧寺の湯」と呼ばれ、会津藩の保養所として使われていた。

 東山温泉は川沿いにたくさんの旅館が並ぶ山あいの温泉地だ。その一角、川のほとりに小さな岩風呂があり「土方歳三戦傷湯治岩風呂」という看板が立っている。

歳三が浸かったと伝わる源泉「猿の湯」

 この湯は源泉名を「猿の湯」といい、上流にある「くつろぎ宿 新滝」が管理している。脱衣所も目隠しもなく、入浴はできない。手を浸けてみると、かなりぬるい。源泉は40度にも達していないのだろうから、浸かったら相当にぬるい。その代わりに、この宿に泊まれば同じ「猿の湯」源泉を注いだホテル内の大浴場に入浴することができる。そちらは適温にまで加温されている。

 ただし、いくつか説があって、歳三が本当にこの「猿の湯」に入ったのかどうかは分からない。雰囲気的に見れば、私は同じ「くつろぎ宿 新滝」内にある「千年の湯」のほうが、それにふさわしいように思える。

会津・東山温泉、江戸時代の面影を伝える2軒の温泉宿

 その湯は「猿の湯」より少し上流に位置し、江戸時代は会津藩主専用の湯殿があったという。藩主・松平容保は、かつて京都で近藤勇に「温泉いたすよう」と勧めたから、この国許にある湯殿にも来たことがあったのかもしれない。近藤に勧めたように、歳三にも湯治を勧めたのであろうか。

旅館「くつろぎ宿 新滝」の地下にある千年の湯

「くつろぎ宿 新滝」に宿泊し、「千年の湯」に浸かってみた。その浴室は、ずっと階段をおりた地下にあって、温泉が自噴する岩盤がそのまま湯船と一体になった贅沢なつくりだ。その源泉はとてもなめらか。冬場に雪の中を歩いて、寒さに凍えていた身体がたちまち温もった。岩肌のなかの湯壺には、いつまでも離れ難い魔力が宿るかのようであった。

 そして、もう一軒。そこから少し川下にある「向瀧」(むかいたき)も、勧めておきたい宿である。会津藩士たちの保養所を前身とするその建物は、国の登録文化財。江戸時代の旅籠を思わせる風格があり、藩士たちが入ったころと変わりのない自然湧出の源泉「きつね湯」を持っている。

東山温泉の老舗旅館「向瀧」

 その内湯はごく簡素なものだが、独特の素朴さと格調の高さがあり、見ただけで心が安らぐようだ。湯の良質なことはいうまでもない。贅沢に放流された源泉が、からだ全体を包み込んで癒してくれる。湯と外観のみならず接客も心地よく、老舗然とした堅苦しさがなくて実に居心地がいい。

 3つ挙げたなかで、歳三がどの湯に浸かったのかは判然としないが、この東山温泉の川っぷちのどこかであったことは間違いない。歳三は傷が快方に向かうと、リハビリを兼ねて川で泳いだという逸話が、地元では言い伝えられている。

東山温泉の絵図。猿の湯の位置に「不動湯」とある

 この明治初期の頃の東山温泉の絵図によると、なるほど確かに、川べりに「猿の湯」の湯殿があったことが確かに確認できる。右隣に「向瀧」も描かれている。歳三も会津藩が管理していたこれらの湯殿を利用して、治りかけた傷をいやしたのかもしれない。

 実際、昭和初期の頃までは、河原に下りて泳いだり、洗濯をする人々の姿が多く見られたらしい。会津での歳三の温泉湯治は文献上からは確認ができないが、会津では長く伝承として語り継がれている。

蝦夷地(北海道)でも続いた、土方歳三と温泉の関係

 傷の癒えた歳三はさらに北上し、再び新政府軍と戦う。その歴史の流れからは、もうひとつの温泉地の名前が出てくる。湯の川温泉(北海道函館市)である。

湯の川温泉の足湯

 戦局の悪化で箱館(函館)へ逃れ、最終決戦・箱館戦争に参加した。その戦場の近くに「湯の川温泉」があった。松前藩の湯治場であり、9代藩主・松前高広の傷を癒したとの逸話が伝わり、江戸時代から名高い温泉地だった。

 その地理的条件から「湯の川温泉」は、旧幕府軍の療養所となり、負傷兵の治療や休養に使われたという。そして、その指揮をとる榎本武揚も訪れて湯治したと伝わっている。またその際に「ここの温泉を百尺(約30m)も掘り下げたら必ず熱い湯が多量に出るだろう」と言ったともいう。

 地元の人々はその言葉を信じ、ボーリングしたところ明治19年(1886)に温泉が出た。毎分140リットルもの豊富な湯量で、湯の川の本格的な開発が始まったという。隣町に「榎本町」という地名が付いたのは、地元民の彼に対する感謝の念からかもしれない。

 ここで「歳三も浸かった」と、はっきり書ければいいのだが、残念なことに、会津と同様に彼の湯治の記録までは、見つけられなかった。しかし、何にせよ榎本武揚も利用した湯治場だ。同じ旧幕府軍の幹部である歳三も、湯の川で心身の疲れを癒した可能性はかなり高いと考えられよう。

函館にある土方歳三最期の地碑

 明治2年(1869年)5月11日、土方歳三は五稜郭をめぐる攻防戦において、新政府軍の銃撃を受け壮絶に散った。函館市若松町に建つ「土方歳三最期の地碑」が、戦死した場所という。

 そこから湯の川温泉は、わずか5kmのところに位置する。今は市街地に溶け込んで、大きな温泉宿というよりも、立派なホテルが建ち並ぶ都会的な風景が広がっていて、江戸時代のころの面影はまったくない。北の大地の凍てつくような寒さを癒す熱い湯が、35歳の若さで逝った、土方歳三のせめてもの慰めとなったことを祈りたい。

《文・写真/上永哲矢》
歴史著述家・紀行作家/温泉随筆家。神奈川県出身。日本全国および中国や台湾各地の史跡取材を精力的に行なう。各種雑誌・ウェブに連載を持つ。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。

今回紹介した温泉&旅館
・有馬温泉: http://www.arima-onsen.com/
・くつろぎ宿 新滝(東山温泉):http://www.shintaki.kutsurogijuku.jp/
・向瀧(東山温泉):https://www.mukaitaki.com/
・湯の川温泉:https://hakodate-yunokawa.jp/