1964年、前回の東京オリンピックが開催されたが、じつは1940年にも東京での開催が計画されていた。しかし、それは開催されることなく幻に終わってしまった。1940年の東京オリンピックがなぜ幻の東京五輪になったのか、その背景について解説する。

1940年、東京オリンピック招致が決定した

オリンピックを開催するには、その前に招致活動が必要になる。まずは1940年の招致活動からその決定までの流れを見てみよう。

当時の国々にとって、オリンピックの開催は大国であることの証だった。日本も開催への機運が高まり、1931年の東京市会において招致が決定した。翌年にはロサンゼルスでオリンピックが開催されたが、この年に日本は世界に向けて1940年オリンピックの招致を宣言する。

最終的に候補となっていたのは東京(日本)のほかにローマ(イタリア)とヘルシンキ(フィンランド)の2都市。各国のアピール合戦が繰り広げられるなか、1936年に国際オリンピック委員会(以下、IOC)会長のバイエ=ラトゥール氏が来日した。日本各地を回ったラトゥール氏は、すっかり親日派となる。

同年の夏にはIOCのベルリン総会が開催されたが、各国の代表が承知に向けて演説を行った。日本代表として演説を行ったのが、「柔道の父」と呼ばれる嘉納治五郎だった。教育におけるスポーツや体育の価値を見出していた嘉納は、アジアで開催する意義を訴え、見事に1940年の東京への招致が決定したのだ。

幻の昭和五輪。東京オリンピックはなぜ返上されたのか?

東京での開催がようやく決定したのにもかかわらず、それは幻に終わってしまう。いままで一度招致が決定してから開催国が返上した唯一のケースである。では、なぜ開催中止となったのだろうか。

そもそも開催に関しては国内でも反対の声はあった。1936年のベルリン大会ではヒトラーによる宣伝などを目的とした政治利用の色も濃く、東京においてもこの点が懸念された。

また、じつは夏季だけでなく、冬季の札幌でのオリンピック、さらには万博の開催も同時に計画されていた。過去にオリンピックと万博の同時開催がうまくいかなかった経緯から、IOCがこれら3つの大きなイベントが日本に集中することに難色を示し始めたこともあり、国内でも議論が分かれた。

そして、1937年に日中戦争が勃発して以降、この軍事衝突が国際的に非難を浴び、IOCは日本に開催の辞退を求めるようになった。さらに、国内情勢としても政府からの協力も得づらくなり、組織委員会は難しい立場に追いやられる。最終的に、政府は開催の中止を組織委員会に勧告し、組織委員会はこれを承諾して開催の返上をIOCに申し入れたのである。

結果的に、1940年の東京オリンピック開催は実現しなかったが、このときの招致活動を通して残された財産が、24年後の1964年の東京開催に大きな役割を果たすことになったのだ。