天守や野面積みの石垣に
城郭最古の建築様式を見る

天下統一を目指す織田信長にとって、北陸の平定は反抗勢力の他国に越前一向一揆も抱える有数の難関であった。

そしてようやく天正3年(1575)にこの地を制圧し、右腕の柴田勝家を越前領主に置くと、その勝家は甥の勝豊を丸岡に派遣。

当初、一向一揆の拠点跡である豊原寺に居を構えた勝豊であったが、翌年に「まるこの丘」と呼ばれる東方の山に城を移転する。これが丸岡城である。

往時は二の丸や三の丸、五角形の内堀を有した丸岡城だが、廃藩後に建物の多くは解体され資材として売却、堀も埋め立てられてしまった。

そのため、現在の城にかつての威容を見ることはできないが、日本最古級400年の歴史を刻む現存天守は、ほかの天守とは一線を画する歴史的な魅力に満ちている。

天守最上階から見下ろす丸岡の街の眺め。

高さ12.6m、2層3階の望楼型天守は、手斧の跡が各所に見られ、武骨な印象を抱かせる板張りの建物である。太平の世には程遠い時代の天守であったため、鉄砲狭間や石落としといった戦への備えが各所に施され、急角度で造られた階段は訪れる者を圧倒。

また、豪雪地の気候に合わせた創意工夫もなされており、天守の足場を支える石垣は最も古い工法とされる野面積み。石を乱雑に積み上げただけにも見えるが、すき間が多くて水はけが良いため、雪や豪雨に強いといわれている。

さらに、天守台は石垣よりもひと回り狭く造られており、これは雨水の流入を防ぐためだと伝えられている。なお、近隣に並び立つ山などがないため俯瞰するのは難しいが、ぜひ屋根瓦にも着目してほしい。

石瓦葺きの屋根は、全国の現存天守でもここだけ。足羽山(福井市)の笏谷石などを用いた瓦屋根は、この城の価値を高める稀有な要素である。

さて、天下の覇権が変遷する過程で丸岡城の城主の座も移り変わったが、初代丸岡藩主の本多成重(幼名 仙千代)は慶長17年(1612)から36年にわたって領主を務めた。

成重の父・重次は、家康がまだ三河の一大名だった頃からの忠臣で天野康景、高力清長と並び、三河三奉行と称された人物。戦では傷を負っても鬼気迫る戦いぶりを見せ、「鬼作左」の異名をとった。

戦の陣中で妻に書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙の簡碑が天守の東側に建っている。

丸岡城|まるおかじょう
福井県坂井市丸岡町霞町1-59
TEL:0776-66-0303(丸岡城管理事務所)
開城時間:8:30〜17:00
休城日:なし
入場料:大人450円
アクセス:JR「芦原温泉駅」よりバスで約20分「丸岡城」下車

※開城時間等についてはHP等で要確認。