天守の入母屋破風(はふ)の懸魚(げぎょ)には、漆喰で作られた美しい花びらが見られる。職人の技術の高さを物語っている。

山内一豊が威信を賭けて大高坂山に築いた高知城

行く手には、堅牢な石垣の上に黒く光る渡櫓を載せた追手門が構えている。その左斜め後方には、南国・土佐の日差しを浴びて輝く天守がそびえ立つ。登城する武士たちは、この威容を前に一瞬、襟を正したに違いない。

追手門と天守が一緒に見えるのは高知城ならでは。追手門からでも見られるが、門の向かいにある高知城歴史博物館からの眺め(写真)も絶景。

「このように、追手門と現存天守を一枚の絵のように眺められるのは、日本では高知城だけなんですよ」

城を案内してくれる、高知県教育委員会文化財課の樋口裕也さんも少し誇らしげだ。そんな威厳ある佇まいとなったのには、土佐国の成り立ちも深く関わってくる。入城前に、まずは土佐国の歴史を紐解いてみたい。

戦国時代末期以降、この地域を統治していたのは長宗我部氏。第二十一代・元親の時代には最盛期を迎え、一時は四国中に進出する。しかし、第二十二代・盛親は関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れ、改易となってしまう。

代わりに土佐国を治めたのが、遠江掛川城主だった山内一豊。ところが、長宗我部家の旧臣は反乱を繰り返し、一豊の統治は多難な幕開けとなった。

追手門の横には初代土佐藩主・山内一豊の像が。高さ4.32m、重さ3.6t、台座5.08m、総高は9.4m で、騎馬像としては国内最大クラス。ちなみに城内の杉ノ段には、妻・千代の像も設置されている。

当初、一豊は長宗我部氏の旧城である浦戸城に入城した。しかし城下町を開くには平地が狭かったため、高知平野のほぼ中央に位置する大高坂山(おおたかさかやま)に城を築き、周囲に城下町を建設した。

これが現在の高知城と高知市中心部。統治基盤が盤石とは言えなかった一豊は、築城に当たって城の防御に力を注いだ。同時に、城主の威厳を示す格式にもこだわったのは想像に難くない。

防御力の高さは、追手門からも見て取れる。門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっていて、三方向から攻撃を加えることができる。門を閉ざされ、矢を射られた瞬間を想像すると、やむなく退却するほかなさそうだ。

「石垣には文字が彫られたものもあるんです。由来は不明ですが、門をくぐる前に探してみると面白いですよ」

矢狭間塀の石垣には、文字が刻まれた石も(写真は「エ」)

樋口さんの解説どおり探してみると、『ウ』とか『エ』といった文字が見つかった。渡櫓を見上げれば、防御のための「石落とし」も。天守を前にして、すでに追手門から見どころ満載だ。

堅固な防御の石段を上り詰門を経て天守のある本丸へ

高知城の表門である追手門。石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えだ。

追手門をくぐると、全高約6mの板垣退助像が迎えてくれる。台座の題字は吉田茂の書だ。傍には、明治時代に流行した彼の名言“板垣死すとも自由は死せず”が彫られた石碑もある。

像の左脇からは急な石段が続いており、上ると幅が一様ではない。上りにくく下りやすいよう、わざと変化をつけているのだという。杉ノ段を経てさらに石段を上ると、打込接の石垣が見事な鉄門跡に到着。

かつては多数の鉄板を打ち付けた門扉があったという。ここは三ノ丸入口付近の防衛上非常に重要な場所で、門内の小枡形を石垣の上から攻撃できるようになっている。

三ノ丸北側の苔むした風情ある石垣。「扇の勾配」と呼ばれる曲線美を誇り、隅石は打込接で積まれている。観光客の少ない閑静な場所だ。

さらに石段を上ると、右の手前に三ノ丸とその奥に二ノ丸、左手には本丸と天守が迫り、真正面には数段の石段越しに黒塗りの詰門がそびえている。ここから天守を目指すには、詰門を通るよう誘導されているが、門への階段を上ると三方から矢と鉄砲の洗礼を浴びることになる。

詰門の正面。右が二ノ丸、左が本丸

しかも、門は簡単に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が筋違いに設置されている。巧妙としか言いようがない。ちなみに、詰門は通常閉じられているが、毎年2月中旬に7日間ほど開放されている。

三ノ丸、二ノ丸を歩くと、先ほどの詰門の上櫓に到着。ここが二ノ丸から本丸への通路となっている。家老などの詰所としても使われたという古めかしい上櫓内を通り抜けると、目の前が開け、待望の本丸御殿と天守が姿を現した。

不思議なことに、上ってきた時に感じた威圧感が天守からは感じられない。落ち着いた雰囲気の大入母屋の御殿、花弁の装飾が施された天守の懸魚など、日本家屋を連想する繊細な佇まいに思わず見入ってしまう。

「本丸の外と中からでは、天守の雰囲気が全然違って見えるのも高知城の面白さ。しかも、天守だけでなく本丸内の建造物がすべて残っているのは、日本でも貴重なことなんです」

天守から見た御殿の屋根や黒鉄門など。城外には県庁が見える

天守や御殿、廊下門に東・西多門櫓、黒鉄門など11棟もの建築物が残る〝高知の宝〟を前に、樋口さんの表情も自然とほころぶ。城の本丸がどう構成されていたのかを、江戸時代から残された建築群を通して知ることができる、高知城最大の見どころだ。

貴重な本丸の建築群を眺め観光客の少ない穴場へ進む

高知城の御殿は「懐徳館」と呼ばれ、4つしかない日本の現存御殿のひとつだ。御殿内に入ると、明るい日差しが差し込み、庭には爽やかな風がそよいでいる。

南国の日差しが差し込み、爽やかな風を感じる天守最上階

欄間も黒潮の波をモチーフにしたもので、格式と共に南国らしい開放感が感じられた。元々は藩主の住居だった本丸御殿だが、二ノ丸や三ノ丸に御殿が完成すると、藩主と家族はそちらに移り住んだ。

そして本丸御殿は儀式などに使われたそうだ。藩主が座る上段ノ間は一段高くなっており、ここで来客を応接したという。幕末史に名を刻む十五代藩主・山内容堂も、ここに座ったと思うと感慨深い。

御殿の内部。奥が藩主が座る上段ノ間で、左には武者隠がある

容堂の雅号は鯨海酔侯(げいかいすいこう)で、詩と酒を愛したことで有名だが、高知の人々も議論と酒が好きだと言われている。

「確かに良く飲みますね。今でも酒席では、まず目上の人にお酒を注ぎに行く献杯をします。注がれた人は一気に飲み干し、お酌をしてくれた人に杯を返してお酒を注ぐ返杯をするんです。今度は杯を返された人が一気に飲む。これを上席から全員と繰り返すので、かなり酔ってしまいます」

そんな樋口さんの話を聞き、高知の人の豪快な飲みっぷりに驚かされた。
風情ある御殿を後に、今度は天守内へと入っていく。外から見ると四重だが、内部は三重六階という複雑な構造で、石落など実践的な工夫が随所に見られる。

天守の内部から見た石落

急な階段を上って最上階にたどり着くと、高欄付きの廻縁がめぐらされ、高知平野の絶景が一望できる。吹き抜ける風が何とも心地良い。

現在の天守は享保12年(1727)に火災で焼失後、寛延2年(1749)に再建されたもの。高欄のある天守は格式が高いとされるが、高知城のそれはさらに豪華な黒漆塗り。山内氏のこだわりが感じられる造りだ。

天守を後にし、黒鉄門から外に出て本丸の周囲を歩く。天守を見上げると、高知城にしか残されていない“忍返(しのびがえし)”が張り出している。石垣をよじ登ってくる敵を撃退するための金属製の棒だ。

天守1階北側の忍返。現存するのは高知城だけ

また、排水装置の「石樋」も高知城ならでは。全国屈指の多雨地帯のため、排水が石垣に直接当たらないよう工夫されている。そんな箇所に感心していると樋口さんがこう提案した。

「最後に、観光客の皆さんがあまり行かない場所に行ってみましょう」
三ノ丸を通り、城の北側の石段を下りると、人通りの少ない空間に二ノ丸、三ノ丸の石垣が続いている。美しい曲線美の石垣には苔がむし、城が経た歳月の重みを感じさせられる。

「この辺りは地元の皆さんの恰好の散策路になっています。高知城は市民にとってランドマークであると同時に、日々の憩いの場でもあるんです」と樋口さんが教えてくれた。

静かに水を湛えた追手門前の内堀

観光客で賑わう追手門や詰門、御殿や天守は城の表の顔だが、ここは地元の人々が好む物静かなもうひとつの城の顔、といった趣だ。

柔らかな日差しのなか、しっとりと苔むした静寂の空間をゆっくりと歩きながら、これまでの貴重な体験の余韻を味わう。その歴史の重みをじっくりと噛み締めた。

こうちじょう
高知県高知市丸ノ内1-2-1
TEL:088-824-5701(高知城管理事務所)
開館時間:9:00~17:00(天守・懐徳館、
入場は16:30まで。二ノ丸以下は終日立ち入り可能)
休館日:12月26日~12月31日、1月1日
入館料:18歳以上420円(天守・懐徳館、二ノ丸以下無料)
アクセス:JR「高知駅」より路面電車で約10分、「高知城前」下車
https://kochipark.jp/kochijyo/usage-guide

文/浅川俊文 撮影/池本史彦

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