16198現存十二天守の城を学ぶ。「姫路城」(兵庫県姫路市)|平成の保存修理を経て、生まれ変わった美しい白鷺の城

現存十二天守の城を学ぶ。「姫路城」(兵庫県姫路市)|平成の保存修理を経て、生まれ変わった美しい白鷺の城

男の隠れ家編集部
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慶長14年(1609)に築城された姫路城。江戸時代に池田氏によって近世城郭として整備されて以来、天下の名城として受け継がれてきた。「平成の保存修理工事」を経て、往時の勇姿を取り戻した。
目次

威風堂々とした白亜の大天守に400年の歴史が刻まれている

平成27年(2015)3月に大天守保存修理工事が竣工して以降、多くの人々が生まれ変わった白亜の城を訪れてきた。姫路城は「昭和の大修理」から45年を経て、白漆喰など劣化が目立つようになっていた。

そこで平成の修理では、大天守の漆喰の塗り替えや屋根瓦の全面葺き替えが行われ、加えて耐震補強が施された。そして5年半を経て、天守は往時の姿を取り戻した。

屋根瓦の総数は7万5000枚。その全てに番号を振って下ろし、屋根の反り具合や歪みなどが丹念に調査された。そして漆喰の塗り方や材料もあらためて確認された。

「昭和の工事は時間がないなかで進められましたが、今回は比較的丁寧に漆喰を塗り直せました。瓦を元に戻す際に職人の方々が、反りが大きい物は軒先に、小さいものは壁際にと位置を調整してくれました。これによって水はけがよくなったのでさらに保存状態も良くなるでしょう」

そう話すのは姫路城総合管理室の小林正治さんだ。修理後の状態を長く保つためには十分な工期をとることがとても大切なのだという。

姫路で生まれた小林さんは、昔は自宅の窓から姫路城を眺めることができたと懐かしそうに語る。町の象徴である姫路城は400年間、この場所に静かに佇んできた。

町の人々は城を見上げてその姿を誇らしく感じてきたのだろう。そして5年半に及ぶ保存修理を経て、「白鷺城」は生まれ変わった。美しい白亜の連立式天守が町を見下ろしている。

姫路城の歴史は、鎌倉時代に赤松氏によって姫山に築かれた城に始まる。天正5年(1577)、織田信長の命によって羽柴秀吉は中国攻めに出向いた。

播磨へと入った秀吉を迎えたのが当時、姫路城主だった黒田官兵衛として有名な孝高である。孝高は秀吉の播磨平定に協力し、西国進出の拠点として姫路城を献上した。入城した秀吉は城の改築にとりかかった。

「ほの門」の内側にある油壁は豊臣秀吉時代 の遺構といわれる。

地下に穴蔵を設け、外観は3層だが内部は4階建てになった天守を完成させたのである。

天守の地下1階。左右の太い柱は天守を支える大柱で ある。奥は武器や食糧などの 貯蔵庫であった。

織田信長、豊臣秀吉が死去すると、時代は関ヶ原の戦いへと突き進んで行った。その際、徳川家康について功績をあげたのが新しい姫路城主に任命された池田輝政である。西国へ圧力をかけるために姫路へ入城した輝政は、秀吉時代の天守を解体した。

そして9年の歳月をかけて大規模な城づくりを開始。築城のために動員された人々は延べ2430万人に及んだといわれている。こうして慶長14年(1609)に連立式の大天守群が完成し、近世城郭としての姫路城が誕生した。

現在、城門や天守の屋根瓦に見られる揚羽蝶の家紋は、この池田氏の時代の遺構であることを伝えている。さらに元和3年(1617)、本多忠政が姫路城主となると、姫山に連なる鷺山に西の丸を造り、三の丸に居館を設けるなどした。こうして広大な縄張りを持つ、他に類を見ない城郭が出来上がった。

築城主である池田家の家紋・揚羽蝶。天守の瓦は、池田家の官位を表す桐紋との2種類で統一されている。

城はその頃から何度も補修が行われて保存されてきたが、明治時代になると全国の城が解体され、競売にかけられた。姫路城も廃城かと思われたが、天下の名城を残そうと当時陸軍大佐であった中村重遠が、山縣有朋に訴えた。そして城は後世に保存されることになったのである。

巧妙に張り巡らされた縄張りから難攻不落の天守内へ向かう

まず、天守へと近づくには多くの門をくぐり抜けなければならない。城壁の至る所には狭間と呼ばれる穴が設けられており、侵入者をどこからでも狙えるようになっている。

ここから侵入者を鉄砲や矢で狙い撃ちした。数千カ所の狭間があったが現在は997カ所が残るのみだ。

狭間の穴を下から見上げると、思わず矢で射すくめられているような感覚に陥る。天守に近づいたと思えば遠ざかり、まるで迷路のようである。ようやく本丸である備前丸へと入ると、高さ31・5mの大天守がそびえている。

大天守を囲うように乾小天守、東小天守、西小天守が並び、それぞれが渡櫓でつながった連立式天守になっている

天守内部に入ると張りつめた緊張感が漂っている。静謐な空間には床板を踏みしめる音だけが聞こえる。大天守の外見は5層であるが、実は地階があり、内部は7階である。これが敵の感覚を狂わせる。

そして空間の中心には2本の大柱がある。これが大天守を支えている大柱である。高さ24・6m、根元の直径95㎝で東大柱は最上階の床下まで延びている。この大柱は創建当時のもので樹齢600年だったといわれるモミの木である。

大天守の各階を突き抜けるように立つ東の大柱。400 年前の遺構であり、樹齢 600 年といわれるモミの木が利用されている。

「以前は鎧などの展示物を飾っていたのですが、今回の工事を機会に全て撤去しました。今後は、そのものずばり天守の空間を観て、感じていただきたいと思っています」

一緒に案内をしてくれた姫路観光コンベンションビューローの職員の方がスマートフォンを窓にかざすと、同じ場所で火縄銃を構える武者姿の人物が映し出された。

ARを利用したもので、城内のポイントで当時の様子を再現したCGや映像が楽しめる。これもグランドオープン後に実施されていく企画で、城の姿を知るための一助となる。

大天守を1階ずつ上がっていくと徐々に空間が狭くなっていく。床には所々新しい床板がはめ込まれている。これは今回の工事で補強されたものだ。窓の縁などにも朽ちてしまった木材に当て木が施されているのがわかる。

城は長い歴史のなかで、こうして何度も修理を重ねて受け継がれてきた。そして薄暗い内部を進むと、ついに最上階にたどり着く。これまでの階とは打って変わって書院風の造りになっており、開放的で明るい。全方位に窓が設けられ、窓を覗くと、外には姫路の町並みが広がっている。

「今の大天守の姿が見られるのはそんなに長い期間ではありません。自然にさらされることで漆喰なども傷んでいきます。美しい姫路城を少しでも多く目に焼きつけてほしいと願っています」

小林さんは工事を振り返りながらそう話す。窓から外を見ると目の前には生まれ変わった屋根瓦と、新たに施された目地漆喰の直線美が連なっている。眼下には張り巡らされた広大な縄張りも見えていた。

天守最上階から西方の二の丸、西の丸を見下ろす。複雑に張り巡らされた縄張りの様子がよくわかる。新しく塗り直された屋根の目地漆喰の整然とした直線も美しい。思わず見入ってしまう。

そして現在、小林さんの思い通り、白鷺城の美しさが多くの人々を魅了している。

姫路城(ひめじじょう)
別名:白鷺城
築城年:南北朝時代(1346) 
形態:渦郭式平山城
主な城主:黒田官兵衛、池田輝政、酒井忠邦
主な遺構:現存天守、櫓、門、塀、石垣、堀、土塁
所在地:兵庫県姫路市本町68
TEL:079-285-1146(姫路城管理事務所)
入城時間:9:00〜16:00
休城日:12月29・30日
入城料:1000円
アクセス:JR「姫路駅」より徒歩約20分

※開城時間等についてはHP等で要確認。

撮影/木下清隆  写真提供/姫路フィルムコミッション

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